この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第二、明治浅草安芸人
四、女浪花節流行時代
浅草と浪花節とは、最も密接な関係を有し、而も、其の始め歌祭分であり、デロレン左衛門であった当時から、今日に至るまで、凡そ四~五十年間、親類公債をして来たものです。殊に浪花節がまだ歌祭分であり、デロレンであった当時、錫杖や、法螺貝を吹きたてお立合いから、五厘一銭の島目をセンスに受けて貰い廻った当時こそ、浅草奥山とは最も関係が深く、密接なるものがありました。が、しかし、其の後とても矢張り、両者の関係は深く常に浅草を根城として進展して来たものです。
わけても明治三十九年三月、二~三の弁護士の手によって、浪花節奨励会なるものが出来、続いて、一心亭辰雄を中心とした伊藤痴遊氏の浪花節研究会が起これるに及んで、俄然民衆娯楽のオーソリチーとなった為め、大衆娯楽場としての浅草とは、切っても切れぬ因縁を結ぶに至ったのです。それから間もなく、組合席亭と芸人との間に、種々なる紛擾が起こり、遂には組合では二派にわかれ、其の一派は、三曳、鶴堂を中心とする革新会で、後には東京浪花節組合と改称し、浅草に事務所をおくことになりました。他の一派は、辰燕、円車を中心とする睦会で即ち座亭側に属すものです。
今当時の分野を見ますに、凡そ次の如きものがありました。
・革新会
三曳、鶴堂、蘆幸、勝太郎、重勝、寿一、清吉、大教、一九、楽遊、重友、愛造等、主として関東派に属する者、凡そ百三~四十人で、頗る盛況でした。
・睦会
辰燕、円車、辰丸、虎右衛門、清風の少人数で、革新会から見ると、頗る不振の状態でした。
こうしたことが、何かにつけて浅草殿関係を益々濃厚ならしめる原因となりました。が、しかし、それは兎に角として、彼等が如何に巧みに、ナオンをコマシたか、先ず当時の一節を御参考までにご紹介することにします。
・女と賭博
これ彼等が唯一の慰籍である。口座を降りて一歩外へ出れば、必ず女の手を引くか趙範に輸えいを争うかの何れかだ。但し酒は芸に累を及ぼす為めか、むさしや嘉一を除けば、余り深く嗜る者はいない。去年の暮、美弘〇〇〇が途中で處を尋ねられた田舎娘を木賃宿に連れ込み弄んだ例などは、敢えて珍しくもない。前身が前身だけに随分悪辣な手段を廻す者もないではない。が、俳優や、清元、常盤津の私娼のように、意気とか、粹とか言った側の芸人でないので、八百屋お七が夢中になったり、油屋のお染が熱くなったり、三浦屋の高尾が襠を質に入れて、入れ上げたりするような綺麗事の女の出入りはめったにない。稀にあれば辰燕が神楽坂の清相撲のお神に惚れられたとか、勝太郎が池の端の緑松に買われた位のものだ。大抵は鼻持ちならぬ最合傘、一寸覗き込んだ許りで顔を背けて遺過すような艶種、最も醜悪なる感を抱かせるのは、彼等の多くが女房を殆ど共同物扱いにして恬として顧みないところである。
実例を揚げれば戸川長助が、最小浪花亭亀之助の女房であったのが、僅かの湯金で東家楽遊の女房となり、同小浅が三河屋円車の女房で、二代目辰丸の女房となり、再び円車の妾となり、女房となり、更に馬生、今の小米造の女房となり、後愛楽を長火鉢の向こうに、座らせ、池の端松菊の娘が、早川燕平、玉川勝太郎、吉川盛太郎、簡甲齋虎丸の数名と関係を結ぶなど、それが日夜錯綜交叉して、今夜は東隣に嫁し、明日は西家の妻となり、呉と契り越と結び、その日其の日の出来心。恋という程でないのを数えれば、殆ど切りが無いのである。甚だしきは桃中軒雲右衛門が、師匠、三河屋一の女房お濱を盗んで、本郷菊坂に一家を構え、為めに一は横死する。雲は其の怨霊に悩まされて辰燕に毎晩泊まって貰った話もある。洗い立てをした日には塵埃溜を搔き回すようなものだ。賭博は更らに盛んだ。向こう頭巻きの大安座かなんかで、大前田英五郎や、国定忠治が「カブ」の「ブタ」のと血眼で夜を徹する。勝負は四~五百の額に上り、百や二百の負けではビクともせぬ度胸は素人とは思われぬ程だ。一度新聞に出されたのは、小福、駒右衛門、峰舌、鶴堂等で、いずれも一網打尽恐れ入った手輩である。
これは少し思い切った手厳しい記事ですが、兎に角、当時の彼等は女をコマスシとが、全く巧妙で、少し売れっ子になると、第二第三号と、二人や、三人の妾位は貯えたものである。そして、其の中から三味線を習わせたり、少し声のいい者には、浪花節を教えたりする者もありました。そして又、女で弟子入りなどして来た者は、大抵お師匠の方で気を利かせ、詰まらぬ處まで親切丁寧に、手を取り、足を掴んで、懇切に、而も、真剣に教えてやったものです。ですがらを張り上げることが出来たものです。又時によると、少し眼鼻立ちがよく、当のお師匠さんがポッとなり、何とかして征服したいものだと言う所謂、意中の娘に対し、「君の瞳は素敵だ、天才的閃きがあるなどと扇動し、無理やりに弟子に引き込み、■■のように、上下から順次■えて行くという筆法もありました。
兎に角、異性を師匠に持つということは、敢えて浪界に限ったことではないが、ややもすると足が触り、手が障り、遂には触るべからざる處まで触り易いもので、総てそれが第二号となり、第三号となるのは、決して不思議ではありません。又それが悪いこととも断言は出来ませんが、しかし、浪界にありましては、それが際立って著しく、娘の弟子入りは、必ず師匠のお手付きとなりワラワとなるに定まり切った掟の如くなっております。
しかし、これは一面に於いて、女流浪界を助長し、発展させ、普及させることになります。何故なれば、若し彼女達が、こうした力強いパトロンもなく、独立独歩で放たれたならば、決して今日の如き発展を見なかったに違いありません。つまり彼女たちが、確乎たる後ろだてをワラワ関係によって結び付けているので、予想外に発展することが出来るものと言わねばなりません。
最も或る域に達して終えば、決してこうした後援の必要もありませんが、或る程度の人気を獲得するまでは、どうしてもこうした手段を選ばねばなりますまい。
それは兎に角として、女奈良丸は、たしか浅草田島町の或る髪結いの娘で、二十歳前後の時、初代奈良丸に見込まれて、弟子入りをした訳です。そして、又この髪結いの弟子に、今一人女流浪界の売れっ子になっている女があります。
何れにしますもこの二人は、名実共に天才的ひらめきがあったと見えて、今日ではそれぞれ一流の女浪花節になっております。
殊に浅草に於ける女流浪花節の全盛期は、女奈良丸達が、浅草に於いて、最も華々しい活躍をした時代がそれで、今から丁度一昔前のことです。