この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第二、明治浅草安芸人
二、都踊りと浪花踊り
前にも一言しましたよに、都踊りは、たしか明治二十五~六年頃、今の浅草劇場の處に突然現れましたが、何に分にも美しい女役者達が真紅の蹴り出しをちらつかせ、真っ白な股までも時には、惜しげもなく展開させますので、江戸の見■達が、ひどく上気して、「ヤアヤア」と許り喜び、時ならぬ人気を惹きましたので、間もなくこれに対抗すべき、浪速踊りなるものが、今のキネマ倶楽部附近に出来ました。
しかし、其の内容、実質は因より同一で、当面の芸人達も多くは掛け持ちで、矢張り■のこぼれるのを見て、十二分の優越を感じ、眼を白黒させながら、「ヤアヤアいいぞ」と許り掛け声をかけ、気勢をあげたものです。
最も都踊りにしと、浪速踊りにしろ、芝居と踊りがちゃぽんで、可なり達者な役者も少なくありませんでした。殊にその中でも、春治、信次、梅華、若鯉などは、腕もたっしゃですが、人気も大したものでした。とりわけ信次は、浅尾浅之亟と言って、当時日本一とまで称賛された役者であり、そつぼのいいのでは、春治、若鯉などが、抜群で、可なり浮名を流したものである。何でも若鯉は、其の後田島町の或る豆腐屋の細君になり、震災前まではよく店に座っていましたが、今は他界の人となったそうです。
それらの幹部役者でも、可なり色っぽい話は少なくありませんが、しかし、これ以下の所謂、コーラス級の踊り子になると、とても大した発展振りで、歌劇全盛時代のコーラスに輪をかけた程の物凄さでした。
芝居がかぶると、楽屋口へ男が迎えに来て、それから安酒を飲み歩きます。そして、安酒をたらふく飲んでおまけにたらふく食って、其の上強請られるだけ強請るのですが、大抵の男は、散々ぱら舞台で挑発されている上に、役者買いが、ひろく流行していた当時のことですから、「アイよアイよ」で済ましています。そしてその上二次会と称し、へべれけの体を男の身体に■せ、「シキ」と称する安直なる待合式の處へ、のさばり込むと言う物凄さでした。
全く明治中期後に於ける女芝居の流行は、可なり際立っていましたが、しかし、その裏面に孕む秘密の鍵を解くと、それ以上に際立つものがあります。