この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一、浅草女の変遷
5.芸妓崇高時代
先ず第一に浅草芸妓の由来ですが、これに関連して少しく説かねばならないのは、浅草に於ける待合の由来です。これは明治三年の春、浅草並木町に、待合ちょう名の下に、僅かに一軒ぽつりと出来たのが、そもそも東京に於ける待合の■矢であります。
尤もそれ以前に「待合」に類するものはありました。例えば、船宿の如きは、その一例です。がしかし「待合」と言う名前の下に営業を開始したのは、これが東京忠で、一番最初でした。
處がそれより少し以前、浅草広小路の伊勢藤長屋に、小友、大吉と言う二人の芸妓がありました。これがそもそも公園芸妓の祖先で、而も、東京中のどれよりも先に、「待合」と称する場所へ出入りした芸妓です。
つまり彼女達二人の為に、つくられたものが、東京に於ける待合の■矢となったのです。それは兎に角、維新前後に於ける、小友、大吉の二人は、相当美人でもあり、又かなり人気もありました。
それも其の筈です。彼女二人によって、公園中の料理店総てを得意とし、而も、其の溶融の総■を満たしていたのです。最も当時、芸妓の出入りする料理店は、奥山総てを通じ、本当に数える程で、今日のそれから見ると、かず取りにも足りない数です。殊に奥山を離れた吉野町の八百善の如き、山谷町の重箱の如きは、無論山谷堀芸妓の受け持ち区域でしたから、二人の芸妓によって、充分其の需要を満たすことが出来たわけです。しかし、これ等のことは、何れ浅草食道楽の部で詳細を画くすことにします。
兎に角、維新前後に於いて、奥山芸妓と称するものは(実際はそう言っていなかった)、僅かに二人であったことだけは、当時既に存在していた人達が、口を揃えて固く主張しておりますから、決して間違いはありませんが、その後どういう理由で、現在の場所へ引っ越したものが、その間の事情は不明です。が、何れにしますとも、公園芸妓と称するようになってからは、日増しに昌え日増しに増加して行きました。が、しかし、其の始めは所謂、水転芸妓式の、どちらかと言うと、飾り巾の利かない方でした。殊に役者との関係が、余りに密接で、俗に公園芸妓と馬の脚とまで罵られた位い、ひんぱんに役者買いが昌でした。
言い換えますならば、仮令それが馬の脚であっても、役者と名がつけば、番茶も玉露の如く有りがたがり、それを情夫に持つことが、無上の光栄の如く考えられていたものです。
處が明治の末期頃から、大正五~六年にかけて、芸妓崇高時代なるものが、突如としてやって来ましたので、自然彼女たちの地位も向上し、崇拝者も漸次多くなった為め、勢い意地も、張りも、見識もあるようになりました。わけても明治四十四~五年頃には、千代龍、花子、米子、瓢箪、鶴松太郎、次郎などと言う所謂、七人組なるものが現れ、俄然旧態を脱することになりました。
それから大正七~八年頃から、カフェー女称賛時代になるものでありますが、しかし、これ等は浅草食堂楽と、最も関係の深いことでもありますので、其の方面より詳しく述べることにします。