この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第二、明治浅草安芸人
一、浅草興行街の変遷
世界的大勧業地としての現代の浅草から、過去七~八十年以前を顧みると、全く夢のような急激な、変遷ぶりを示して居ます。殊に明治初年の奥山時代と、今日の六区とを比較しますと、そこには驚くべき変化っと、進歩と、発展と、繁昌があります。
そこで私は、これ等を比較する為に、明治初年より今日に至るまでの大体の変遷を書くことにいたします。が、しかしそれはほんの梗■的なもので、其の詳細なことは、何れどれかの機会に書くことにし、大体の筋道だけに止めておきます。
明治初年の浅草興行街は、言うまでもなく奥山の一廊を占領し、而も、これ等を称して「奥山の見世物」とも言い、又単に「山のタカモノ」とも言っていました。
其の頃の奥山は、「並び」と称して十八軒の矢場が、全盛を極め、其の他の見世物は、全く幼稚なもので、村井源水の居合抜きの見世物小屋や、伊賀蔵と音吉と称するてんてこ芝居の常打ち小屋があったり、乃至は大機械と称する見世物小屋があったり、スレーと言う西洋人の力持ちなどが、とても人気を集めていた位で、物の数にもつかない幼稚さでした。
殊に其の頃、花やしきは俗に植六と称し、変わった植樹や、花奔などを見せ、変わった色彩と共に、それなりの人気を集めてはいましたが、しかし、それにしても見世物としての価値は殆どゼロでした。
最も伊賀蔵と音吉のてんてこ芝居は、その頃の見世物としては、可なり充実したもので人気も亦相当ありました。わけてもスレーの力持ちは、その頃、非常に珍重がられ浅草寺辺りからも後援する者があって、大した人気を集めたが、とうとう浅草寺にも借金を残して行ったと言う話です。
また、大機械と言うのは、今の水族館辺りにあったもので、比較的珍しい。しかも、大きな機械を見せていたものです。又明治中期頃になると、瓦斯の見世物などもありましたが、其の後になって出来た電気の見世物程の人気はありませんでした。
兎に角、奥山時代の見世物は、今日縁日などの見世物よりも、もっと幼稚なもので、今から見れば無論問題になりません。
それから■か明治十七~八年頃だと思いますが、今の六区に富士山の模型を造ったものがありました。其の始めは大した人気で、僅か十日間で、何千円かの資本金を回収したと言う馬鹿当たりの見世物式のものがありました。しかし、それもほんのひと時で、軈て人の好奇心が過ぎ去って行くと自然にさびれ、誰も其の玩具式の富士山に登山する者もなくなりましたので、何時の間にか取り払われて終いました。
それから明治十九年になって、奥山が公園地に編入され、総ての興行物が、今の六区に移されると共に、奥山の名物であった矢場も即ち「並び」も伝法院の横隣り(現在、野口バーのある處)へ移転を命ぜられるに至ったのです。
今六区完成の第一期とも見るべき明治中期頃の興行街を顧みますと、凡そ次のようなものがありました。
・常盤座
先ず目抜きの小屋として、最初に出来たのが常盤座で、その当時はまだ、ちっぽけな仮小屋で木戸も僅か三銭位でした。なんでも周囲に木の橋があって、如何にも当時の浅草らしさを物語っていました。が、しかし、それは後に火災の為に焼失しました。
・パノラマ
常盤座の筋向う今の松竹座と、大東京館の處が、有名なパノラマで、そこには小さな瀧もあり、主として上野戦争や西南役の油絵などの見世物を見せておりました。又ちょっとした動物なども居ました。
・加藤剣舞
それからパノラマの隣に、極く小さな小舎がありました。そこには加藤というテキヤの親分が剣舞を専門にやっていたので、俗に加藤剣舞と呼んでいました。が、軈て剣舞が廃り始めた頃には新演劇に看板を取り替え、そして、同時に場所も筋向うな、現在電器館のある處へ引っ越しました。その当時、常盤座と、加藤剣舞との間に、共同便所があり、金龍館の處は、たしか釣り堀屋であったと思います。
・珍世界
今の富士館と帝国館の境目辺りが、珍世界で、文字通り珍奇なもの許りを見せておりました。これはたしか三十年前後のことです。
・新派の常打ち
明治三十年頃のことです。珍世界の隣の小さな、小舎で、柴田■夫と言う新派役者が、常打ちを始めました。そして、それに引き続いて森要という新派役者も、暫くここに建て■っていたことがあります。
・キネオラマ
現在の三友館の處に、キネオラマと言う活動館が出来たのも、丁度其の頃のことです。其の始めは、全く幼稚なもので、暁の光景とか、夕暮れの光景とか、乃至は「ゆう立の光景」などを見せていたもので、例えばトタンの上に水を流し、。電気で夕立らしい光を見せ、「これが即ち夕立の光景で御座い」と言っていたものです。
・都踊り
これはたしか明治に銃後~六年頃まで、殆ど間断なく永続したと思いますが、兎に角、現在の浅草劇場の處に、都踊りと称する曖昧な、芝居がありました。最も時には剣舞にもなり子供芝居もやって居たと思いますが、いずれにしても根よく永続したものでした。
・青木の玉乗り
これは江川に対抗して出来たもので、場所は現在の大勝館の處です。明治二十年代は、殆ど玉乗り専門でしたが、三十年頃になりますと、少女の幻影劇に替りました。この幻影劇と言うのは舞台の前に大形の鏡があり、而も、少女達は其の中へ道入づて芝居をなし、見物はその鏡を見て楽しむ仕組みになっていたのです。が、しかし、それも永くは続かず、何時の間にか昔通りの少女芝居になりました。役者としては座頭が中村歌扇、書き出しが中村桃代、それから下にも後には相当名を売ったものが沢山あります。
・美人の蛇使いと演説屋
青木の玉乗りの隣が、小さな見世物小舎で、ここは美人の蛇使いや、因果娘の足芸やそれから後には、女の演説屋などの見世物をやっていました。
・浪花踊り
以上の見世物小舎の隣が、釣り堀屋で、それから萬世館で、その次の次辺りに浪花踊りというのが、三十二~三年頃に現れ、四十年頃まで常打ちをやっておりました。小舎の名は清遊館と言い、今の遊楽館といキネマ倶楽部辺りです。ここは芝居と踊りを見せておりましたが、其の踊りも「都踊り」と大同小異で、芸人も多くは掛け持ちで、其の主たるものは、春治、信治、梅花、鯉若などで、二十人からの座員がいました。
・念仏踊り
それらと前後して、念仏踊りと言うのが、ひどく流行したことがあります。そして、それに伴い菊人形の芝居も大した人気がありました。小舎は大抵花やしきとか、都踊りをやっていた處でした。
・江川の玉乗り
娘玉乗りと言えば、誰でもすぐ江川大盛館を思い出させる程、玉乗りと江川とは、離るべからざる関係を持っております。
それも其の筈です。現在の江川はたしか二代目か、三代目の萬吉君で、浅草の興行師として、一状番の古株である許りでなく、誰よりも先に、玉乗りを始め、しかも、其の間多少他に入り道があったにしろ、兎に角、大正時代まで玉乗りを続けていたからです。
殊に明治三十年頃までは、娘玉乗りが専門で、可なり人気があったものです。先ず明治三十年前後に於ける浅草六区の実情は、大体以上の如くですが、しかし、これ以外にも見世物式のちっぽけな小舎があり、「日清談判破裂して」などの女剣舞などが、馬鹿に巾を利かせた当時もありました。
又小鳥芝居や、猿芝居や、女角力などが、ひどく流行したのも、この当時で、殊に「親は代々■師で御座い!」などの毒々しい因果娘の足芸など、とても盛んでした。が、しかし、それらのことを一々書き立てたら、最限がありませんので、これ位な所で切り上げ、何れ何かの機会に詳しく書くことにしましょう。