この文章は、大正8年に発行された「伊東及附近」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
伊東附近の遊覧地
伊東附近は昔より、歴史的関係が多いのと、地勢上海嶽の縁の深いとのために、形勝の地や旧跡がそこここにある。又、丘岡起伏し、登攀に適するものが多い。間人日数に余裕のあるの士は、時に応じて巡遊せんことを切に勧める。今、伊東を中心として二里を出でぬの地、即ち、半日の少遊に適するの地、三、四を記す。
○宇佐美の古駅
伊東から海に沿って西北一里余、三方は山で、南だけ海に面している。挟んだ人家稠密な小駅である。昔から網代や熱海への通路で、今でも中々往来がある。この地とうべき所が多く、眺望また伊東と風景を異にし、特に大崎の鼻附近は良い景色である。
○大楠(おおくすのき)
宇佐美宿の中程から、左へ熱海道を三、四丁山際に春日神社が祀ってある。境内には大楠があって、空洞の大きさ一丈中に数人の座を設けることができる。延宝の昔、巨船、阿武丸を作る際に伐ったもので、現今のはその芽生えであると伝えられ、伊東葛見神社の大楠と同じようなことを言っている。
〇大崎の鼻
大通りをつき当たって、山際の木橋を渡り、右へ濱伝いに小石交じりの道を三丁、漁家の部落を出外れると小さい防浪渠(ぼうろうきょ)があって、常に四、五の漁船がもやっている。なお崖下を二丁許り行くと、道は尽きて波打ち際へ出る。これ大崎の鼻で、絶壁長く会場に突き出し、怒涛を常に澎湃している。見ずや伊東の沿岸は絵のごとく、初島のたい影もまた、翠容を新たにして、我を迎え、時に群鴎横ざまに翔けって帆影を掠むるを。
〇宇佐美砦趾
宇佐美宿の突き当りの小山を城山といって、山の上に六百余坪の平らな所がある。宇佐美祐茂(すけもち)の城砦の趾で、こう地の名残を見る事が出来る。附近、梅桃が多い。山際の杉山某はその後裔で、古文書等蔵すると聞いた。
〇宇佐美氏累代の墓
杉山氏邸後に、五輪塔数基がある。宇佐美家累代の墓と伝えている。
〇東光寺
宿外れの木橋を渡って左へ山沿いの道を五、六丁、右手の小高い所にある。この地の豪族、能登守、宇佐美貞興が延徳三年戦死した際に、其の父、左衛門尉祐孝が(さえもんじょうすけたか)が菩提の為に建立したもので、その法名、道盛東光寺殿より起これる寺号であろう。この辺、山際はすべて南面して、後ろに山を追っているので、気候著しく温暖、一月上旬すでに梅の満開である。
〇朝善寺
東光寺から尚、四、五丁左へ田圃路へ曲がって、竹藪近くにある。日蓮上人の高弟日朝出生の地で、その父、圓能坊夫妻の墓がある。僻村にあるので、寺運頗る振るわない。
〇圓能坊夫妻の墓
朝善寺の本堂に向かって左側へ墓地の中程に、二基の五輪の塔がある。高さ四尺一寸、多くの小墓の雑然たる間にあって荒れ切っている。一方は頂部の宝珠うぃ失っていて、文字などは殆ど判読することができぬ。