この文章は、大正15年に刊行された「アイヌの熊狩と熊祭」の内容です。
画像は熊祭を扱った絵葉書から。
又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
熊祭りの方法
北海道アイヌは、毎年大抵十二月から翌年二月頃迄の間に行う。熊祭りの日となると、一族の老若男女は勿論、ほとんど部落全部集合し、家中、あらん限りの宝物を適当の場所に陳列し、其処には莚、すなわちアイヌ語では「チタラベ」と称するガマの葉は編みて製したるものを敷き、神棚(アイヌ語イナオサン、或いはヌジヤサン)を設けて色々の飾付をなし、綺麗なイナオ(木幣)、立派なイコロ(刀剣)、花矢(アイヌ語エペレアイ、或いはヘペレアイ)、おいしい団子と酒(あらかじめ濁酒を醸し置く)を供えるのである。又、適当なところに杭を一本立て、これもイナホ(木幣)を捧げ以って熊を繋ぐ杭とするのである。
処変われば品変わるで、熊祭りの方法なども、それぞれアイヌ部落によって違う点が少なくない。今玆には主として旭川アイヌ部落で行う方法の大体をご紹介することにしよう。
祭壇の準備が出来上がると、酋長又は家長が熊の頭に縄を掛けて檻から引き出し、飾付ある中央の木に繋ぎ、メノコ(アイヌ婦女)は大勢にて円陣を作り、節面白き歌を歌いながら、熊の周囲を踊りまわる。男子は祭壇の側の座にありて、盛に酒を飲む。童児かわるがわる出でて、花矢(ヘペレアイ)を射て怒らせる。人々の叫ぶ声は耳を聾せんばかり熊は怒り狂うて暴れる。
人々は喜ぶが熊は疲れ果てて遂に踞りて立てぬようになる。すると棒の一端に笹の葉を結び付けた「タクサ」と称するもので熊を脅しては又、花矢を射る。
やがて熊の疲労、衰弱の機を伺い、一人が竹矢(毒なきもの)を射ると驚きの咆哮して走る、或いはその竹矢を抜かんとあせる。其の機を逸せず尚も竹矢二~三本急所を目がけて射る。さすがの猛熊も何條以てたまるべき。勢い次第に衰えるその弱りたるを見て、一斉に歓声をあげ、中央の杭に縛り付け、この刹那に勇敢な若きアイヌが突進して熊の耳と顔皮を噛み、今一人進みて後体を捉え、他の一人駆来りて長さ二尺程の円き棒を口に咥えさせる。熊は力を極めて噛み付きて放さない。
次に二人にて両側より各前脚を捉え、他の二人同様に後脚を捉える。次に日本の絞殺棒(アイヌ語オク○ヌンバ○二(原文ママ)」を持ち出し、一は咽喉の下に、他は頭の上に当てて壓殺するのである。この際、人々相争うて死体に手を触れるので、相互に踏み合う程である。しばらくして三撃破終わり、熊は絶命するのである。
斯くて屍を徐々に引来りてヌシャサン、即ち神座に俯伏させ濁酒を盛りて供え、菓子、乾魚を捧げ、イナオを立て主客一同その前に蹲居し礼拝して後、再び酒を酌む。之を「カムイノミ」という。宴終わりて後、その場にて解剖し、皮を剥ぎ、肉は羹にして又、酒盃を挙げ大抵三日間位酒宴が続く。昼夜を分たず鯨飲するのである。
解剖する際にアイヌ人等はまだ暖かく睲き血液を椀に盛りて自らも飲み、児等にも飲ませる。之は熊の力と御利益とを得ん為である。著者も甞て、彼らの進むる儘に血液を飲んだことがある。皮を剥ぐ間はメノコ(アイヌの婦女)はやはり、その側に円陣を作りて盛に歌いながら踊る。