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ノスタルジック解説ブログ

(一)伊香保温泉①【大正15年「上毛の温泉」より】

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(一)伊香保温泉①【大正15年「上毛の温泉」より】

この文章は、大正15年に発行された「上毛の温泉」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


(一)伊香保温泉

(1)総説
 三山の中、優麗をもって鳴る榛名山の中腹にある、天下の名泉、伊香保は、名編「不如帰」を読んだ者には、誰にも、浪子の名と共に、深い印象を残されているであろう。

 げに此処ばかりは、薄明の佳人浪子にとって、唯一つの楽しい思い出の地であった。新緑につつまれた伊香保の春、千明の宿り、さては蕨狩、その新婚の楽しい伊香保の生活は永くなかったが、薄明に泣きつつ死んだ浪子には、永久に、ビューテースポットとして、胸深く印せられて居るであろう。浪子は死んだ。然し彼女の名と、血の涙とは、今に消えない。否、永久に消えないであろう。


(2)名泉伊香保
 この伊香保が、「不如帰」の著者、蘆花氏に愛されてから、一層人口に膾炙するに至ったことは確かな事実であるが、しかし、随分古くから知られた名泉である。万葉集にも其の名が見えているし、垂仁朝には、すでに湧いていたと言われておる。

 本泉の急に名高くなったのは明治十二年、英照皇太后の行啓あそばされてからのことで、それから高貴の方の御来浴が逐年多くなり、明治三十五年六月、畏くも、今上陛下の東宮に在す頃、鶴籠をここに枉げさせられたのである。伊香保の今日あるは、実に、聖恩に依ると言うべきである。御用邸あり、岩崎男お別荘あり、其の他名門富豪の来浴頗る多く、毎年の避暑季節には、さながら現代の生きた人名辞書を見るの観を呈する。浴客の延泊数の年に四十七万に達するを見ても、その盛んな様子が想像されるであろう。

 かくの如き盛大な温泉場となって、名士富豪の来浴が多いため、世には往々にして「伊香保は成金ブルヂョアの温泉なり」という者もあるが、それは大なる誤解である。成程、金に糸目は着けぬと言うならば、食料器具はもちろん、あらゆる娯楽等まで立ち所に間に合わせる。往年成金続出の時代、一成金の突飛な注文によって、東都京橋竹葉の鰻を温かい中に薦め得たという話さえある位であるが、それは特殊の中の特別で、一般は極めて簡易に生活出来るようになっている。一切の諸道具を借りて自炊さえ出来、盛夏三か月の繁昌期を除いては、自宅にいるより廉く生活することが出来るようになっている。


(3)交通
 上越南線渋川駅下車、渋川から電車もしくは自動車で登るのが普通である。前橋駅・高崎駅下車の場合には、渋川迄電車自動車の便がある。

 東京方面よりは、渋川駅下車、電車・自動車により、東北常磐方面よりは、前橋駅下車、電車・自動車により、信越方面よりは、高崎駅もしくは北高崎駅下車、電車によるのが最も便利である。


(4)旅館
 温泉旅館は大小四十余軒、何れも三層四層の大廈高楼で、急坂によって建てられ、一楼は一閣より高く、後ろの家は前の家の屋根の上に見えるので、どの家も展望を遮るものがなく、遠く赤城・子持の山々を指呼の中に望むことが出来る。

ここは上州伊香保の湯 向かう小野子 子持山 子のないお方はござらんせ

 本当にこの唄の通りである。各旅館には、皆、数個の内湯があり、清潔で、設備は完全、通信機関、娯楽機関も完備して居って、居心地が非常によい。

 旅館よりの眺めはよし。散策すべき勝地は数多あり。一ヶ月位の滞留で倦怠を感ずるようなことはない。

 宿料は、普通旅籠と室貸との二種類あり。長期滞在をする客は、多く室貸を希望して、一室もしくは数室と、寝具其の他必要な物品とを借りて、毎日自炊的に、自分の好むところのものを、女中に命じて炊事をさせ、自分の家のような生活が出来るようになっている。これは経済上余程都合がよい。
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