この文章は、大正15年に発行された「上毛の温泉」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
(三)温泉郷吾妻
白根・浅間の麓から発する吾妻川の渓谷に添う一帯は、全国にも珍しい温泉帯で、大小合わせて十有余、而も中には草津・四萬を始めとして、天下に知名の温泉を含んでいる。
上越南線渋川駅に下車して、電車若しくは自動車で中之条へ行く。中之条から先へ尚、吾妻川に沿うて行けば、河原湯から草津へ行く。吾妻川と別れて右へ進めば澤渡と四萬で、更に進めばこれも草津へ行くのである。軽井沢から草津鉄道の通ぜぬ中は、皆この何れかの道に依って草津へ行ったものである。皆不便を厭うので、この道は近頃さびれた感があるが、関東第一の絶景、関東耶馬渓を見んとならば、ぜひこの道を通らねばならぬ。
真に上州の山河の真価を知らんとするの士は、軽井沢より草津へ、草津より関東耶馬渓の絶勝を賞し、河原湯から中之条を経て伊香保に到り、大温泉圏を描かれんことをお勧めする。
(一)草津温泉
(1)総説
相模灘の荒浪はしたなく御船を阻んで、征夷の壮図あわれ空しからん時しも、貞烈弟橘媛決然背の君に代わって御身を龍王に捧げ、為に無事に御船をやり得たことは、日本女性史の上に陽のように輝く事実であるが、流石雄々しい日本武尊の御胸にも、媛の花の御姿消ゆるに由なく、征戦果てての帰るさ、途を上毛野の山地にとられても、御衣の御袖に露やは宿る。高きに登って顧みれば、木の間、峰の間、雲煙縹渺として、あわれいとしの我が妹子、我が為めに失せぬるは彼方かと、御剣を杖に悵然と巌頭に立たして少時は感慨無量の胸重く、恐懼して伏す近侍の耳におおそれ、唯一語、
「吾妻はや・・・」と。
今上毛野一角に残る吾妻の名よ、更に又、ゆかしき嬬恋の里よ。由緒古き、総鎮守白根神社は、尊を祭神として、近郷の崇敬の的となって居るのである。この白根の麓、山水の絶景に囲まれて湯の郷草津はある。
草津よい所 白根の麓 暑さ知らずの 風が吹く
ひなびた草津節は、こう歌って土地に誇っている。
(2)交通
この草津へは、軽井沢から草津鉄道によって行くのが最も便利である。
上野ー軽井沢
長野ー軽井沢
軽井沢ー(草津鉄道)ー嬬恋 二時間半 一円二十八銭
嬬恋ー草津間(七月草津鉄道開通の予定) 三里
自動車 一時間 二円
馬車 三時間 二円
馬 二円
この外、上越南線渋川から行く道もある。伊香保から行くにも、この道を通るのが面白い。
渋川ー中之条迄 電車 一時間半 八十五銭
自動車 一時間 一円二十銭
中之条ー河原湯ー長野原ー草津
自動車 三時間 三円
まだこの他に澤渡温泉から梶原源太景季で名高い暮坂峠を越えて行くもの。信越線豊野駅に下車して、信州渋温泉を通り、更に馬か徒歩で行く面白い道もある。
(3)軽井沢から草津へ
白樺と落葉松との林の中に、或いは白く、或いは青く、こじんまりと、気の利いた洋館が点々として、そこの草原、ここの岡には、清楚な服の裳を軽く、西洋人の散策の姿が見え、異国情調たっぷりな一郷は避暑地で有名な軽井沢である。
大浅間をめぐる高原の風致は、島崎藤村の千曲川のスケッチに描かれては居るが、日本趣味とは遠かったのか、これを絶好の避暑地として最初に発見したのは外人であって、今でも避暑客の六分は外人であるが、彼等にとってはこの雄大な景色が、彼等の故国の風物をさながらに髣髴するのだそうで、白亜、紅泥の洋館に依って、忽ちに異国風に生き返って仕舞った。
この軽井沢から、ホテルのある三笠、鈴蘭のある二度上、別荘地地蔵川を経て嬬恋駅まで、汽車は四千尺以上の高地を、峰をめぐり谷を越えて走るのである。日本最初の鉱山鉄道で、鉄道建設史のエポックメーキング、開通するまでは一の暴挙と斯界からは見られていた。大自然の地形を辿って少しも天然の風景を傷つけぬ所に、技術上の苦心も完成してからの誇りもある。単に草津へ行けるだけが取り柄の平凡な鉄道ではない。凡てが箱庭式の整っては居るが、せせこましい日本の名所を盆栽の松とすれば、ここは正に野育ちの亭々たる松である。何処と言って押さえ場のない茫とした雄大の中に、却って大自然の真骨髄は赤裸々に露われている。この景趣を車窓に於いて味わいつつ行く所に、この鉄道の遊覧鉄道としての絶大な価値が存する。白樺・落葉松は、枝さし延べて吾等の顔を撫せんとする。白雲は熊笹の葉末伝いに吾等の後を慕うて這い上がって来る。夏は白百合、鈴蘭の香も高い。冬は雪深々と埋めて、筧から洩れる水は且つ結び、且つ氷って、丈余の氷柱となる。炭焼く紫煙も車窓から眺められる。
嬬恋駅から、三原・石津・谷所と緩やかな坂を登って三里、草津へ行くのである。
(4)草津の歴史
草津の由来は随分古い。日本武尊の故事は別とするも、養老年間に行基菩薩が薬王如来の顕現に依って発見したと光泉寺縁起にある。従って草津の名も、大般若経にある「南方有名湯是草津湯」とある所から、行基菩薩が命名したのかも知れない。
十八年の歳月を、西に東につけつ覗いつ、遂に本懐を達して仇討のレコードを作った曾我兄弟の物語にも、蝶と千鳥の小袖に五月の雨をしぼって藤野裾野に花を咲かせる前に、浅間の裾の狩倉にも忍び入ったが、その機を得なかったとあるが、その建久四年の巻狩に、頼朝の来浴したことが、東鑑・曾我物語にも見えていて、その湯は今に白旗の湯として残って居る。文禄年間には、豊太閤も来浴の志あって果たさなかったが、豊太閤温泉行先触なる文書が残って居る。
文化文政の頃に至っては、草津千軒と言われる程繁昌極に達して、恋の病の外、癒らぬもののないと言う名声は、天下に普くなって、日本温泉番付には、西の有馬と並んで、温泉の横綱と許されるに至ったが、次いで日本医界の慈父ベルツ博士来浴数度、気候風土、泉質世界無比の太鼓判を押すに及んで、温泉界の覇者として、その名声は世界的になって来た。