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この文章は、昭和14年に発行された「支那街の一夜」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
舟遊びの艶姿
道路へ来ると、又喧々囂々を極めている。実に姦びすしい。真瓜を売るもの、齧って歩くもの、大声あげて怒鳴るもの、それを見て笑っているもの様々だ。
己れ達は支那通のM君を控えているから、万が一喧嘩を吹っ掛けられても、言語が通ぜぬと云う不便もなく、何かと心強い思いがしていたので、割合に動ぜなかった。異様の眼付をして見るものあれば、ヂッと睨み返して威風堂々を示しておさえつけて遣った。
突然小さい支那の汚い風体の子供が裸足のまま我々の前後左右を囲んで、頻りに何か哀願する態度を示した。
「何を云ってるんだろう」
と、M君を顧みると、
「なぁに乞食ですよ。一人に遣ると、ドッとあっちこっちから押し寄せて来るから、見て見ぬ振りをしてお通りなさい」
と、云うから、己れは急に見て見ぬ振りしてトッと歩いた。子供の乞食が何時までも五月蠅くついてきた。然しこっちは何時までも教えを守って見て見ぬ振りを続けた。
少しく進んで行くと、其処には龍を飾らせる遊覧船が幾つもあった。まるで支那の錦絵そのままな雅到の深い舟であった。そして支那人好みの濃い色彩で、ごってり塗り立ててあった。舟の中は二間に仕切られ、屋根付きであった。覗いて見ると卓や椅子があった。一間の方はアンペラを敷いてあったのみだ。
珍しいのでヂッと立ったまま見ていると、所謂船頭やしいのが三~四人、交々押しかけて来て「どうか俺等の舟に乗って下さい」と云うて、各自の舟を自慢相に指さしながら、せがんだ。あんまり懸命に勧めるので、何となしに一寸乗って見たい様な気になった。
「乗って見ようか」
と、己れが云い出した。
「ウン乗ってもいい。支那気分はこんな所に胚胎しているから」
「よし其れぢゃ乗ろう」
と、己れは答えて、真っ先に舟に乗った。R君M君之に続いた。
船頭と云うても若い。二十二~三歳だ。余程日本人を相手にしていると見えて、いきなり、
「舟は愉快ですよ」
と、日本語で云うた。
「あッ、君は日本語が出来るんだね」
「ええ少し許り」
「日本にいたことがある?」
「いいえ、でも日本語は知っています」
「日本語を知っていると、金が余計に儲かるからだろう」
「御戯談を」
と、御戯談をと云うまで、彼は日本語は鮮やかなものであった。
舟縁に腰を下ろしていると、船頭は出船の用意をした。人が急に黒だかりになった。何が珍しいんだろう。どうも其の見ている様子が、舟に乗る様な人は、余程身分のある人達に違いない。どれ顔見てやれと云ったげな風が見えた。だから己れ達は事ここに及んでは、身分ある顔付をせざるを得なかった。
「オイ君は急に済ましたぢゃないか」
と、君が云うた。
「シッ、身分ある顔付しろよ」
「一体何事が起ったんだい?」
「何でもいいから、天井を仰げ。半分喫みさしの煙草を放って、身分ある者の意義を全うした。
あとで、「何故君はあんなことを云うたんだい?」と訊いたから、実はこうこうで身分ある人達の様に見惚れていたからだと云うと、道理で君は諸葛孔明みたいな顔をしたんだナと云うた。
船頭が舟を動かす前、早くもわきへ遣って来て、「ビールは要りませんか。料理は要りませんか」と、勧めた。要らない要らないと手を振ると、それではと、又例の如くお茶と西瓜の種を持って来た。いよいよ舟が動き出した。
池はゆるやかな小川続きであった。その小川の縁を棹さされた。次第に雑音から遠ざかって人の影もない小丘を右に見て行く。森とした気持ちになる。玄宗が楊貴妃を失うた瞬間見たいな淡い気持だ。
フと己れは前ぽへ我々と同じい型の舟がゆるやかに漕がれて行くのが眼に付いた。その舟は舟遊びを目的とするらしく、いともゆるやかに、恰も動いているのか動いていないのか解らない位ゆるやかさであった。我々の舟は直ぐ追い付いてしまった。追い付く拍子に期せずして、先方の乗客の眼と、此方の乗客の眼とは一致した。どっちも好奇心はこういう場合に必ず働くものだ。そして微かながらも遊船同士と云う一種の楽しみがお互いに萌していたことも否むことが出来ない。
先方の舟には支那の貴族らしい一家族が乗っていた。真白な絹で頭に金を飾ったのは夫人であろう。その側に可愛い顔をした同じく真白の装いは其の子女であろう。その又側に一団となって固まっているのは侍女に違いない。みな女ばかりであった。
かれ等の人達はこうした遊船がきっと唯一の楽しみなのに違いない。卓の上には様々の珍味佳肴が所狭しと許り並び立てられてあった。
われわれの舟は次第に其れ等から遠ざかった。再び静寂さが四辺を包む。先刻まで耳にも付かなかった棹さす音が、はっきりぢゃぶぢゃぶと水の音を立てて進んだ。
川が終わると今度は池の真ん中に出た。支那の貴族の住家らしい大きな家が岸の彼方に見える。自動車の走るのも見える。人と人とが歩いているのも解る。池の藻の青色が陽に輝いていた。
舟すすむにつれて、向こうの方に大きな五色に彩やす龍の口から噴水が天に沖していた。それは見たこともない大きな噴水で、又珍しいものであった。それが強い日光を受けてあらゆる色彩が其の龍を包む丸い輪郭に陽炎を造る時、何とも云えぬ壮観且つ美観であった。
舟は其れに次第に近づきながら、島に沿うて進んだ。島から幾つも池へ飛び出た断橋があった。その断橋に舟が触れる様に棹さされると、待っていましたと許り、幾人となしの子供が哀願の情を示して、幾分の貰いをと懸命にせがんだ。己れは余りの其の哀れな様にいとど憐憫の情を催し、財布から銅貨を取り出すが早いか、ポンと投げて、
「それッ船頭いそげッ」
と、素早く遠ざかってしまった。子供の乞食たちは其の銅貨を我こそは手に入れんものと互いに棒倒しに相争うていた。
「ねえ君、君」
と、突然己れは船頭を呼んだ。そろそろ退屈を感じたからだ。
「一体まだまだ永く乗っているのか」
「ええ、やっと半分しか来ません」
「半分?フーン」
と、己れは急にガッカリして、急に二人を顧みながら、
「どうだ、そろそろ飽きが来ない?」
「飽いたね」
「僕も飽いたね」
と、二人は云うた。みんな無為に時を舟で過ごしているのが惜しくなったのだ。
「ぢゃ下り様か」
「ウン、下り様」
と、忽ちにして賛成、賛成だ。
「お下りになりますか」
と、船頭はこの会話を耳にして、棹さす手を止めた。
「ウン下りる」
「左様ですか。それぢゃ向こうの橋へ付けますから」
と、急に棹に力をこめて、グイグイ舟を進めた。舟は橋へ来てピタリと止まった。
僕から真っ先に島へ飛び上がった。賃銭を払うとなると、少ないと云う。凡そどれだけ沢山與えても最初は必ず「少ない」と云って難癖を付けるのが、彼等の通弊だと云う。
「何をッ」と、M君が進み出て、
「どうして少ないんだ?この前他の舟に乗った時、全部一周してさえ、これだけだったぞ」
と、躍起になって怒鳴りつけた。所謂強さと云うものを見せたのだ。すると早くも物見高いと云おうか、附近にうろうろしていた支那人がたらがり集って来た。己れは気が気でなかったけど、M君は案外平気だった。
「これで十分だ」
「その代わり酒代として少し下さい」
と、船頭もこの日本人は通だと見てか、存外早く折れて出た。
「酒代?」
「ヘイ、大抵貰うことになっていますから」
「それでは」
と、M君は僕を顧み、小さい声で
「一円位遣って下さい」
と云う。
己れはこの船頭眼不都合なことを云うと睨みつけながら、両替で持っていた支那の一円紙幣を渡した。睨みつけた所、とても身分ある人達でない。
島の中には先刻眼に付かなかった新たな物に又眼が付いた。緞帳の下がっている中には手品があるんだと云う。頓狂な声を出しているのは、中に蛇使いがいるから今のうちにお入りなさい。人間の首を巻いている最中だと喚いているんだと云う。
チンチンプカプカと頻りに囃し立てている。色んな物売りが道路に並んでいる所、日本の露店と大差が無かった。
向こうの方の幾十となき天幕の中から、野獣の様な人間の叫びがドッドッと押し寄せる様に聴こえてくる。わめきたてる様な、争い打つ様な異様な声だ。外には汚い野獣の様な男が右往左往する様が手に取るように聞こえる。
「何だろう」
と、己れは立ち止まった。
「下流社会の市場みたいなものです。あんな所に入り込むと、飛んだ目に逢いますから、およしなさい」
と、M君は己れの足が其の方へ進むのを怖れて、早くも止めてしまった。
再び己れ達は先刻入ったカフェーの裏口へ来た。
「もう一度入って見ようか」
と、己れは二人を唆して見た。
「強つい思し召しだね。白状せい。あすこの女に参ったんだろ」
「白状する。あすこの女に参ったんだ」
「ぢゃ入って遣ろうか」
「ウン入ってくれ」
一同ドヤドヤと裏口の橋から入って行った。男ボーイの先刻僕等に給仕した男が、ニヤーリと笑って再び招じた。そのニヤーリと笑った其のニヤーリが如何にも皮肉ぶったニヤーリであった。己れは何だか心の中を見透かされた様な気がして、視線をそらしながら椅子へ座った。
何と云う幻滅さであろう。そこには歌姫はたった一人しかいなかった。而も其の取り残された歌姫は、私の一番魂を恍惚させた其の人では無かった。私は淋しい顔してしまった。
きっと他の客に連れられて他へ行ったのに違いない。そして彼等はさぞ今頃は楽し相に囁き合っているに違いない。美しい約束がそこで結ばれているに違いない。
金さえ出せばどうにでもなる。あの女もやっぱり其の一人だと思うと、淡い悲哀が胸いっぱいに拡がって来る。
あの細い身体が野獣の如き支那の男共に次第次第に虐まれて行くのかと思うと、労しい気がしてならぬ。きっとその虐みの為に、あの美しい容色は次第に色さまされて行くであろう、光が失せて行くであろう。年齢もとって行くであろう。
どう云う運命がかれ等の上を招来導いて行くものであろう。私は労しくてならない。運命の神よ、人類と云う大きなものの上に、かれ等が支那人とは云わず、又日本人と云わず総ての上に恵を與えてくれ。私は其の恵みが、一度相見たいと云う純愛の彼女の上に、殊に深からんことを祈る。
私は彼女の名も知らぬ。そして再び来ないこの巷と別れを告げて去って行くのだ。名を知っているかつてさえこんなに彼女の上を案ずるんだもの、名を知っていたら、いつまでもいつまでも彼女の名を呼び続けているに違いない。
ああ、幸福と云う字よ、彼女の総てを包んでおくれ。
左様なら、ああ、左様なら。