この文章は、明治42年に刊行された「樺太探検記」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
波高く夜は暗し
大根の菰包み!成程、考えて見れば探検記者の携帯品としては頗る奇異に感ぜしめるに相違ない。野澤船長が一驚して不振の眉ひそめ且つ、何か世人を驚かすべき奇抜なる任務を帯びた物であろうと観察したのも無理ではない。然し、記者自身にとっては実に何でもない事件なので船に乗る前の晩、樺太へ行くのだがお土産には何が良かろう、何か非常に喜ばせる物が無かろうかと宿屋の女中に相談すると、
「樺太さ行きなさるなら、大根に限りますだ。樺太てえ処は、只もう雪と氷より外には何も無い処で、青い物ったら薬にしたくても見られねぇ処だそうで、従来も長官様がお帰りの時には、きっと大根と菜っ葉を汽船に一杯積んで帰りなさったもんだて・・・・・・」
と樺太への土産は大根に限ると説かれて、はたと膝を打った記者は「成程、こいつはもっともな話。それ詮議に詮議を重ね吟味を加えて上等の大根を二~三百も買って参れろ番頭を全権大使としてシコタマ大根を買わせた一伍一什を手短に語って官憲記者の用意周到なる事、まずざっとこんなものなりと得意の鼻をうごめかすと、船長はブっと噴出し、樺太には大根もあればキャベツもある。葱もあれば馬鈴薯もある。汽車もあれば電話もありますと言われた時は、思わず赤面せざるを得なかった。樺太に全然野菜類が無いとは信じなかったが、尚、今日の進歩は知らなかった。
我々は従来、余りに樺太について冷淡であった結果、劈頭第一に斯かる大失敗を演ずるに至ったのである。然し、樺太が実際、我が内地人に向かって余り紹介されて居ないのは事実である。っ只、地図の上で其の地位と形とを知る位に止まって、其の内情を知悉する者、きわめて稀れなるは遺憾に堪えない。是において、我が樺太島の現状を詳細に世上に紹介する事はシベリア探検の副産物として当然、記者が書くべき一大責任なる事を感じた。
夜に入って船長の予言の如く、風はいよいよ強く、ホハシラの頂に当たってキヌを裂くが如き音を発し、浪はいよいよ高く狂いに狂うてフナバタを打ち甲板を洗って、少なからず船客のキモを冷さしめた。然し我が七百トンの木造船は、老練なる野澤船長の指揮の下に、左舷に五度の傾斜を為しつつ荒れに荒るる海上を右に揺られ左に揺られ、忽ちにして百尺の山に上り忽ちにして千尋の谷に落ち、波のまにまに、一上一下しつつ、まっしぐらに乗り切った。強風怒涛の相せめぐ物凄まじき叫びの声の中に、時々水を離れたる暗車の空転の音が交じって身の毛もよだつよう、静かに身を寝床に横たえる記者は、船の動揺する毎に右にごろごろ、左にごろごろ、其の上、隣の室、向こうの室等に腸まで吐き出すような苦しげな唸り声を聞いては、つい釣り込まれて吐き気を催すので、ひそかに床を抜けて、甲板に這い出て見れば、風ばかりか、波ばかりか、綿をちぎって投げるが如き、雪は礫の如く音立てて飛んでいる。
何等の壮絶!何等の壮絶!よろめく足を踏みしめつつ、しかと欄干に掴まって立ち上がった時、予は胸中に叫んだ。
「オオ、雪よ、風よ、波よ、吾が前途は尚更に大なる苦痛と危険とを以って充たさる。何等の愉快ぞや」
明くれば二十六日、風も波も少しは静まった。司令塔に野澤船長を訪えば、彼は真っ赤に充血したる眼をしばたたきながら「イヤー、昨夜はとうとう、一睡もしませんでした。どうです北海の珍味は御気に召しましたか」と相変わらずのんきな事を言っている。ふと眼を上げて波の彼方を見遣れば、ポツリと水平線上に現れたる白色の一物、何者ぞと望遠鏡を取って熟視すれば、是は如何に巨然たる一個の氷塊!!船が彼に向かって進むのか、彼が船に向かって来るのか、氷解は刻一刻、其の大さを増して来るのである。