この文章は、明治42年に刊行された「樺太探検記」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
海馬島の四時間
望遠鏡裡に現れ来たれる一個の氷塊!!しかも其の大きさの刻々に増し来たり其の形の追々に明らかになり来るは、正しく氷塊と駿河丸が相接近しつつあるを証明している。この時突如として予が胸中に閃いたものは、冬季北洋の航海者をして戦慄せしむる処の、かの有名なる流氷である。オウそうだそうだ、この氷塊こそは疑うべくもあらぬ、かの流氷なるものに相違ないと気付くと、只興味を以ってのみ眺めているわけにはゆかない。船と氷塊との距離を目測して、是を駿河丸の速力で割ってみると、約一時間の後、我々はかの氷塊に衝突して、かれ破壊するか、我々が粉砕さるるか、何れか一の結果に終わらなければならぬ。しかし、かかる場合、天下何人かの堅氷の敗北を想像する者があろうか、しかのみならず、其の一時間というものは氷塊が仮に一定の処に浮遊しているものと見ての算用で、こんな事は実際に有り得べからず処であるから、我々の運命は更に短き時間の後に迫っているものといわれなければならぬなどと、自問自答して少なからず気をもんで居るに引き換えて、野沢船長波相変わらず平然と構えて、恰もこの一大事件を知らざるもののようである・・・。
しかし記者は二十分の後、不安の念を以って注視しつつありし。この氷塊が雪に覆われたる一孤島たる事を確かめ、更に四十分の後、駿河丸は其の側に錨を投した。本島は樺太の付属島にして西ノトロ半島を西に去る事三十海里の位置にあり、露領時代にはマネロン島と呼び、今は海馬島と命名されているが、アイヌは昔から、トドモシリ(海驢島)と称し、今も尚、「トド島」が一般に用いられている。
旧火山の址の絶頂が僅かに海面上に露出したるものにて、周囲五里に足らず、島内には一寸の平地無く、海岸は屏風を立てたる如き断崖絶壁で、白浪淋しく其の崖下を洗う。いわゆるトド(海驢)の生息地として有名なる島である。春から夏にかけて、鰊、鱈、その他の漁業者が、い集して来るが、秋の末から翌年の春迄、半年間は只、僅少なる漁場の番屋と樺太庁郵便電信局出張所があるばかり。駿河丸は二通の手紙と五枚の葉書及び一個の小包郵便を届けんが為に寄港したのであった。
出港までは四~五時間の猶予があるというので、記者は銃を肩にして上陸してみた。毎日雪と波より眼に映ずる事のない島人等は、非常なる珍客として歓迎し、記者が「トドを一頭獲たい」というや、直ちに漁業用の小舟を出してくれた。内地の事情、島内の冬営模様などを問いつ語りつの間に、早くも弾劾の下をグルリと漕ぎまわると、其処は海岸やや展けて、子牛の様な十五~六頭の海驢は、日当たりの良い平らな岩を撰んで心地よさそうに眠っている。己の命を奪わんとして照尺を計りつつある者のあるのも知らずして、彼らはいかなる夢を楽しんでいるのであろうか。最も手近の一頭に狙いをつけて、ズトーンと火蓋を切ると、頭蓋骨を射られて岩の上から真っ逆さまに転げ落ちた。「〆た!」と叫ぶ間もなく、他の十数頭がざんぶとばかり水中に飛び込むだかと思うと、ポカリポカリと頭を持ち上げ、憤怒の眼を光らせ猛然として突進して来た。
これを見ると漁夫等は青くなって一生懸命に櫓を漕いで逃げた。聞けば、始めの間は、彼等は銃の音を聞くと直ちに狼狽して水に沈んで消え失せたが、近来はともすれば逆襲し来って船を転覆する事があると、かくて記者が最初の獲物は無念ながら海中に放棄した。その代わり、島人が手製の海苔の佃煮などを貰って帰ったが、余りに不利益な交換であった。