この文章は、大正2年に刊行された「樺太移住案内」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一章 樺太の統治沿革
四 露国の南侵の千島交換
越えて明治八年に至り、露国との紛議も漸く解決を告げ、千島樺太交換条約成るや、暫く樺太をして露国の手に委せしめざるの止むなきに至れり。今少しく露国の東洋に野心を有し、漸進し来たれる由来を討ぬるに、実に十六世紀の中葉イワン四世の時、シベリアの酋長エヂケル其の全土を挙げて之に服従し、次いでウラルの「コサック」エルマックの東方コーカサス地方を平定して、之を貢献したるに基因す。爾来露国は鋭意東方に其の領土を拡張せんと欲し、急遽東進、忽ちにしてハバロフスクの経営となり、黒龍江畔の開拓となり、而してカムチャッカのエン有となる。かくして東海活躍の基礎を定むるや、一方北米大陸の北西に其の驥足を伸ばすと共に、又、南方千島に直下して、以って我が北門を窺うに至れり。
北方の危態、それかくの如く急なり。然るに我が松前藩の北方統治に至りては唯名のみに止まりて其の実を欠けり。是を以てカムチャッカを根拠とせる「コサック」は常に千島列島との間を往復航行して、蝦夷各地の動静を窺い、黒龍江を地盤とせる露人は、漸次北部樺太より侵入して、ひたすら諸般の設備を為すに至れり。かくて寛政四年ラックスマン修好を請うて来たりしも成らず、越えて文化元年、レサノフ再び修好貿易を求めて長崎に来たりしが、之また幕府の拒絶する所となるや、露国はクシュンコタン及びルータカに横暴にも侵寇し、土人を虐げ番人小屋を焼き米塩を掠むる等、一再に止まらざりき、嘉永五年、露国は水師提督プウチャチンを派遣して一は交易を求め一は定境の事を議せんと大いに威嚇を試みたり。
初めプウチャチンは亜庭湾沿岸一部を除く外、樺太の全土及び択捉以北の諸島を以て露領なりと主張せり、当時我が国の談判医院は大目付、筒井肥後守及び勘定奉行川路聖謨にして談判荏苒三年の長きに至りしが、遂にウルップ以北を露領と認め、本島に関しては何等決する所なくして、終結せり。然るに安政六年、露国の使節ムラブイヨウはアイグン条約の例を試みんとして渡来し、極めて強硬なる態度を以て、本島全部の所領を主張したりしたが、遂に我の容るる所とならずして空しく還れり。この時に於ける我が談判委員は遠藤但馬及び酒井右京亮の両人なりき。
爾後文久二年、我が国は修好の為に国使を欧州列国に派遣するに当たり、特に露国に対しては樺太境界の事を定義せしむ。時の外国奉行、竹内下野守、同松平石見守之が使節たり。而して露国は北緯四十八度線を以て境界とせんと主張し、我は五十度線を以てせんとし、両々固持して相容れず、翌年を期して両国の使節を樺太に会せしめ、親しく山河の形勢に従って、之を協定せん事を約せしも、当時幕末の擾乱其の極に達し、外事を顧みるの暇なく、遂に之が履行を見ること能わずして止みたり。
更に慶応二年十月に至り、小出大和守及び石川駿河守を露国に派し、外務亜細亜局長スワレモーフに会見して曩に締約したる五十度線画定の実行を迫らしめたるも議合わず、本島は唯従前の如く漫然日露両属として仮条約を締結したるに止まりき。而して明治五年露国代理公使ピッオフの来任するや、樺太に関して協定を試むる所ありしも、其の議また熟せず。明治七年海軍中将榎本武揚を露国に派し、クシュンナイを以て彼我の境界とせんことを提議せしめたるも成らず、折衝の結果、遂に翌年を以て千島列島を我が領有に帰し、樺太全土は挙げて露国に譲与するので条約を締結するに至りてここに一段落を告げたるなり。