この文章は、大正2年に刊行された「樺太移住案内」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一章 樺太の統治沿革
五 日露の交戦と領有後の概況
我が樺太の領有権が夙に帝国の隷属すべきものなるは之を中外の歴史に徴するも明らかなり。然るに前述の如き事情に依りて、一旦露領となれるが、爾来恰も満三十年後に於いて日露の戦端開くるや、明治三十八年七月七日、陸軍中将原口兼済の指揮せる第十三師団は樺太島攻略の命を受け、第三、第四艦隊の掩護に依り、樺太南端の亜庭湾に入り、其の南部上陸隊を上陸せしめたり。敵前上陸と謂うと戦も而も何等の障碍も無かりし如く、歩騎砲工及び若干の機関銃隊は須臾にして上陸を完了し得たり。今少しく当時に於ける其の状況を概じゅつせんに、先ず其の第一着手地点たるべき、コルサクフ市占領は甚だ容易に終わりたり。南部占領軍は初め、コルサコフ港に接続する海岸地点メレヤ及びサイナパーチを上陸予定地となし、海軍陸戦隊を上陸せしめて、附近の敵兵を掃蕩し次いで上陸軍の悉く陸上に整頓するに及ばずして、早くも南部樺太の中心点たるコルサコフ市は既に確実に占領せられたり。同市には露国の施設として官庁官舎倉庫病院等の大建築多く、且つ軍隊を駐箚し、皇軍の上陸する以前より既に戒厳令を布き、在監徒刑囚を義勇兵として一時の軍備を増加し、以って防備に汲々たりしものの如かりしも、而も北遣軍の上陸するや烏合の敵兵は皆風を望んで潰走し、我が軍の同市に入る頃には全市濛々たる火焔に埋められ屈指の建物は皆焼失するに至れり。この際敵の抵抗を試みたるは、唯湾頭高地の微弱なる高地の砲台より数発の応射を試みたるのみに過ぎず、須臾にして自ら砲を爆破して退却せり。
コルサコフを焼棄して後方に退却したる露軍は皆、南部樺太に於ける唯一の策源地たるウラジミロフカ市に集中したるが如かりしも南部占領軍は一日も弛むこと無くして即時緩徐なる追撃戦に着手し、十日以後初めて中部樺太の平原に於いて壮快なる戦闘を為し、遂に同地方を占領せり。
一方北部樺太占領軍は、初め之を南北二軍に分かち、原口師団長は南部の平定後、南軍の指揮を部下の旅団長竹内少将(正策)に譲り、自ら北軍を率いて北方に向い、七月十七日樺太全島の統括中心たるアレキサンドロフ港を衝き、同地に上陸し容易に之を占領せり。該市は北緯五十度以北に位し、沿海州のデカストリ湾と対峙し、ヅイガの右岸に沿い、人口一万五千を算し全島行政の中央町なり。陸軍中将を最高官として約百名の官吏と、常備兵千五百、義勇兵二千を備え、北陸寒郷に於ける一勝区たるを失わざりき。
かくしてアレキサンドロフ港附近を占領したる北進軍は、配送したる敵兵を追撃せしも、敵は地勢の峻嶮を恃み、密林の鬱蒼たるオール地帯に閉塞して更に頑強なる抵抗を試みたりしも、追撃騎兵の圧迫愈々急なるに由り、甚だ困憊の色ありしより我が軍は之を察して、二十九日夜、敵に勧降書を送付したるに、翌三十日午前、敵の軍使タウラン我が前哨に来たり。樺太島軍務知事たるリヤブノフ中将の幸福を■し来たれり。因って原口司令官は之を允許し、翌三十一日、参謀長小泉大佐は敵軍参謀長ドリヒゲ少将と会見して降伏条件を決定し、北部樺太また速やかに戟定の功を奏しぬ。ここに於いて樺太出征軍は八月七日ルイコフ市の中央寺院に盛大なる樺太囘収の祝宴を挙げたり。
全島戟定の報、大本営に上るや、大元帥陛下は乃ち左の如き優渥なる勅語を賜りたり。
北遣艦隊司令官片岡中将に賜りたる勅語
北遣艦隊ハ天候ヲ冒シテ陸軍ヲ護送シ其上陸ヲ完フセシメテ樺太ノ基礎ヲ成セリ朕深ク之ヲ嘉尚ス
上陸軍司令官原口中将に賜りたる勅語
我樺太軍ハ曩ニこふさこふ及ビ其附近ノ敵を掃蕩シテ南部ノ占領ヲ完クシ今又首府あれきさんどろふ及ビるいこふ地方ノ敵ヲ撃擾シテ其占領ヲ確実ニセリ朕深ク汝将卒ノ行動敏捷ニシテ偉大ノ効果ヲ収メタルヲ嘉尚ス
出征僅かに一ヶ月に満たずして完全に同島を占領せる勇敢なる我が軍は、直ちに軍政署を設けて軍政を布き、次いで之を撤廃して民政署を設けたるも、幾ばくもなくしてポーツマス講和条約成るに及び、本島北緯五十度以南の地は、まったく我が領有に復し、明治四十年三月民政署を廃すると共に、樺太庁を設置し以って今日に至る。而して国境画定の作業もまた日露両国委員の協力により、三十九、四十の両年に渉りて終わりを告げ、長に北門の保障を築成し得たり。