この文章は、大正2年に刊行された「樺太移住案内」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一章 樺太の統治沿革
二 松前氏の領有時代
慶安四年、松前氏の家臣、蠣崎伝右衛門をして本島を視察せしめ、更に明和年間には和田某を、天明年間には新井田隆助をして、相次いで沿岸漁業の状況を視察せしむ。後、寛政二年に及び土人の漁業に従事すつもの少なからざるのみならず、奥羽地方より渡来して同じく漁撈を為すもの漸を遂うて増加し来たれり。是に於いて松前氏は藩吏を派して、クシュンナイ(久春内)、シラヌシ(白主)の二か所に勤番所を設け、之が保護取り締まりの任に当たらしめ、管轄実行の端斯の如くにして漸く啓けしが、当時国防警備は等閑に付されありて、僅かに藩吏の漁業期中のみに在勤するに過ぎざりしが如し。
然るに徳川幕府に於いても、北方開拓の要あるを覚り、天明五年、勘定奉行、松平秀持及びその臣、山口鐡五郎等を派し、蝦夷地全部の探検に従事せしめてより、引き続き寛政元年には最上徳内、和田兵太夫等を享和元年には中村小一郎、高橋治太夫等を、文化五年には松田伝十郎、間宮林蔵等を各々派して本島を巡検せしめ、そのケン策によりて徐に之が経営の実を挙ぐるに至れり。
之れより先、寛政十一年、北境の警備ようやく急を告ぐるや、松前藩の力克く之を防ぐに足らず、幕府はすなわち之を直轄地となし、文化四年、更に松前奉行の管理に附し、南部、津軽両藩に令して戌兵を出し、蝦夷各地の警備をなさしめたり、しかして直接其の任に当たれるは、松田伝十郎にして、即ち兵二百を率いて、シラヌシに駐屯し、しかして樺太を改めて北蝦夷と称し、北蝦夷会所を設けて、漁民の保護奨励に勉めしめたり。
当時、白主、クシュンコタン(大泊)、久春内に運上屋、勤番所及び砲台等の設備を為し、克シラヌシには山丹交易所あり、沿岸漁場の数二十七を算せり。かくして安政四年に至り蝦夷地は一旦、松前藩に還付せられたりしも、安政二年徳川斉昭、堀織部正等のゲン言に基づき、再び全領地を挙げて之を幕府の直轄となしたり。
当時本島には、奉行の下に支配組頭、組頭支配調役、並調役、出役、下役元締等を置き、全土を口場所、中場所、奥場所の三区に分かち、調役は之をクシュンコタン、白主、西トンソイ(真岡)、クシンナイ、ワーレ(輪荒)の五要地に配置し、会津、仙台、秋田、荘内の四藩これが交代警護の任に当たり、且つ歴代しばしば渡航して、親しく本島を視察し、下僚もまた年々島内を巡視して、土人を撫恤し、更に漁場を開設するに努めしも、当時既に露国との折衝頻繁を極め、幕府の威信殆ど地に委し、治績見るに足るべきものなかりき。