この文章は、明治42年に刊行された「樺太探検記」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
生命財産は保証せずという汽車
大泊から首府の豊原(旧称ウラヂミロフカ)迄、二十七マイル間は軽便鉄道が通じて日に二回づつ往復している。大泊は海岸に沿うて東西に長く連なった市街で、端から端までは大約一里、東の突端に「栄町」という停車場があって、西の端は「コルサコフ」駅だ。面倒でもこれだけ話して置かぬと次の喜劇がわからない。
豊原行きの下り一番午前六時四十五分、栄町発だが、眼が覚めたのが漸く六時、座敷の中の雪にキモを潰したり、便所へ行って糞柱に見惚れたりしている間に、最早六時半だ。生まれてこの時位、大汗で飯を喰ったことはないが、其れでも湯で洗った沢庵が凍って、まるで雪を噛むような味がした事だけは記憶している。最後の飯の一塊が未だ喉を通りつつある頃、既に靴を履き終わって、一目散に停車場へ駆けつけたが、南無三宝、タッタ一歩の差で汽車は出てしまった。これからいよいよ、雪に埋もれた樺太の山野を踏破してシベリア大氷原に入らんとする第一に早朝からこの失敗「幸先悪し」と御幣を担ぐ訳ではないが、気抜けのするものだ。そうこうしていると、宿屋のバンと右派素早く手荷物を再び馬橇に積んで、
「さ、大急ぎでコルサコフの停車場へお出でなさい。なに汽車も橇も大抵速力は同じです。きっと間に合いますから」
と言う。西洋の御伽噺の中にある様な話だが、兎に角、橇に飛び乗って一鞭当てさせると馬は四足を揃えて韋駄天の如くに飛んだ。源左衛門式の馬だが足だけは達者と見える。それに街路の雪は踏まれるのと凍るのとで砥石の如く滑らかに固まって、橇は面白いようにつるつるとすべる。かくて驚くなかれ。予はコルサコフに着いて橇賃を払って、切符を買って手荷物を預けて徐に汽車に乗るまで、綽綽たる余裕をもったのである。
栄町より豊原まで三等賃金八十五銭、二等は十割増し、一等客車は無し。この軽便鉄道は三十八年、占領すると直ぐ陸軍の手で敷設したので、つい近頃までは「生命財産は保証の限りにあらず」という掛札があったそうだが、無論、今日はそう無闇に脱線や転覆をやる事は無い。充分安心して良いという事だ。