この文章は、明治42年に刊行された「樺太探検記」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
樺太夢物語
予は今回の探検に於いて親しく目撃した事、並びに自ら行った事だけを記して読者の前に提供すれば、それで自分の責任はすむのだ。しかし世人が我が樺太島に関する知識は余りに貧弱である。養子の朝鮮がしきりにチヤホヤされて居るのにかかわらず、樺太が今日尚、依然として継子扱いにされている感があるのは甚だ遺憾である。
樺太は元来、自分の腹を痛めた実子で、一時、かどわかされ半分の里子という体裁で隣家へ行っていたが、これを取り返すには行く百人の血を流したんぢゃないか、どこまでも面倒を見て立派に育てて遣らなくては男が立つまい。
それには第一に、国民全体が島の模様を詳しく知ってなくては駄目だ。継子扱いもつまりは、その事情にくらい故で、樺太がいなに愉快なる土地で且つ、またいかに大なる富を包有せつ天然の宝庫であるかを説明したならば、我が国民は決してこれを冷眼に見やる事はあるまいと信ずる。これ予が特に以下数十ページを割いて些か樺太島の現状について説明する処あらんとする所以である。
題して夢物語とはいうが、痴人夢を説くの類と同一視されては困る。説くところは悉く事実である。本島最近の事情である。これを語るに御伽話の体裁を採ったのは、なるべく多くの、いかなる婦女子少年にも是非一読してもらいたいという希望から、こうもしたら比較的面白く読ませる事ができようかと思ったので。