この文章は、明治42年に刊行された「樺太探検記」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
上陸難
八時頃、漸う太陽が出た。こんな点は大部分内地とは趣が異なっている。アイスクリームは潮の流るるに従って、ゆらりゆらりと動いている。アイスクリームという警語は忽ち船内に伝わって流行語となった。しかし、アイスクリームといっても厚さ一尺ないし三尺くらいはあるので、一朝、こいつに凍りつかれた日には七百トン内外の駿河丸なぞ身動きだって出来るものぢゃない。陸岸の方は既に一面の堅氷に閉ざされている。果たせる哉、九時頃陸の丘上に信号旗が翻った。曰く、
「海面結氷の為、艀を出す能わず」
こちらからも冗談半分に、
「こんなアイスクリームが何だ?」
とやって「意気地無しめ!」と手を叩いてどっと笑った。しかし、陸では何の意味だか解ろう筈がない。定めて煙に巻かれていた事であろう。時々軟氷の割れ目からポクリと海豹が頭を持上げて、この巨大なる珍客を偵察している。ところで、珍客全く進退に困った。これから引き返して遥々西海岸マウカ港に廻っちゃ大変だし、このままここに一夜を明かしては氷詰めになる事必定だ。一等船客は悉く食堂内に集り、野澤船長を擁して緊急会議を開いたが、
「冬季樺太へ来るには一週間位、氷の中に閉じ込められるだけの覚悟がなくては駄目だね」
荒田という漁場の親方が因果を含める様に言う尾について、
「一昨年の五月でげしたね?天塩川丸という百八十トンの小船に福神漬を積んで国境に近いナヤシ迄行ったところ、クシユンナイ沖でひどい濃霧に出くわしてピーピーと汽笛を鳴らしながら、六時間ばかり海の真ん中に立ち往生をやっていたが、五~六時間先は見えずさ。心細いもんですぜ」
これは小樽の八百屋だそうだ。
「かの天塩川丸の船長の木下という男は、私の友人ですがね。頗る愉快な奴で、人の嫌がる様な航路を選って行きよるが、近頃は大分貯めたそうですヨ」
人の懐感情までやったが勧進の問題は、一向埒が明かず、やむを得ず短艇を下ろし、一等運転手は数名の水夫に櫂を操らせ、斧を揮って堅氷を割りつつ辛うじて上陸し、種々交渉の結果、七~八海里を隔てたるサウイナパーチに回航する事になった。
「飛んだ災難パーチだ」
サウイナパーチは一個の小漁村で上陸したのは午後四時半頃、日は最早ロップリと暮れていた。