この文章は、大正7年に発行された「広重五拾三次現場写真対照」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第十 小田原(相模)
小田原は鎌倉時代に於いて既に海道の一駅たりしと雖も其の名尚お著れず、明慶四年北條早雲伊豆に起りて当国を略するに及び、此地を以て其の府城となる。是より四民来集して漸く繁華となり其の極盛時に於いては鎌倉にも優る観ありしという。然るに天正十八年豊臣秀吉大軍を率いて来たり攻め、城主北条氏政居腹して城遂に陥り超えて徳川家康の世には大久保忠隣是が主となり更に慶長十九年除対改易せられて稲葉氏入部せしも貞享三年大久保忠朝の対となり子孫相伝えて明治維新に至る。城址今尚町の北方丘上に存し壘廓濠徨の跡歴然たり。
広重の図は即ち小田原町の近郊を流るる酒匂河畔より城郭及び箱根の峯■森立せる形勢甚だ雄偉なる様を描けるものにして今や川には長橋を架し電車の是を通うなど四辺の風物聊か其趣きを異にすれども山姿水態概ね昔の儘にして河畔の松籟長えに往時の栄華を物語りつつあり。