この文章は、大正7年に発行された「広重五拾三次現場写真対照」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第十一 箱根(相模)
箱根は坂東随一の天険にして海道の古駅路その山中を過ぐ、世に箱根八里というは即ち是なり。而してこの通路は遠く延暦年間始めて開かれしが程なく廃れ、中世以降は足柄箱根の両道相並んで行旅の往来あり、而も其の後、駅路■々変革せられしを以て其の道筋明らかならず、徳川氏の初、山上蘆ノ湖畔に新関を設け、元和四年、現に旧道と称するところの大路を開き以て街道の官路と定め爾来明治初年に至るまで、欝蒼たる樹間常に人馬の響きを絶たざりき。
広重の図、註して「湖水岡」とあり。其地今何処を指せるもおに判明せず、又、蘆ノ湖岸峯■重■森立すと雖も尚此の図に於いて見るが如く峯頭兀峭壁削立するものあるなし。恐らくは是れかの駒ケ岳の山容を描くに広重殊更奇■飄逸の筆を弄びにあらざるなきか。一幅の画面才情隈なく汪溢して風物悉く躍動し真に古今の名画として推賞するに足るものあり。