この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一、浅草女の変遷
四、銘酒屋女萬能時代
浅草女として茶汲み女の■を受けたものは、一方に於いて矢場の矢取女であり、他方に於いては新聞雑誌縦覧所と、銘酒屋女でありました。が、しかし、矢場の女は、それでも矢取りという本職がありましたから、多少そこに意趣もあり、見識もありました。けれども、新聞雑誌縦覧所や、銘酒屋に至っては、名目こそ新聞雑誌縦覧所であり、銘酒屋でありますが、そこには殆ど月遅れの新聞や、雑誌や、空瓶などが、ちらばっていたり、飾り付けてあるだけで、■って一度も使用したことがないと言う、全く奇怪極まるものでした。寧ろそれは一種のおとりであり、当局に対する申し訳であったことは、今更弁々と説くまでもありません。
要するに彼女達は、てっとり早く、迅速に、粗製乱造式に、最も簡単にして、安直に要領を得る点に於いて、大なる特徴と、長所とを持って生まれたものです。最もその始めは、今日の如きスピード時代ではなかったかも知れませんが、それにしても矢場の女を口説く程、大なる手数と、費用と、努力と、更に金よりも大切なる時間とを消費せずとも、直ちに「オー、イエス」の吉報を齎した点に於いて、更にその他の店舗の速さに於いて、乃至は、これまでありふれた夜鷹などの持つそれと異なり、何かにつけ当時の大衆達には、眼新しい珍奇なものが多かった。
殊に明治二十年代になると、それ等の女の中には、それこそ珍奇な、洋服まがえのような、えたいの知れないものを着ている連中も少なくありませんでした。そして又、土間には椅子や、卓を置き、棚にはウヰスキー、ブランデーと言ったような、(今日でこそありふれているが、当時は可なり珍しいものであった)を二~三本、それは当時は申し訳的に比べていたが、しかし、それも無論、空き瓶で、■って仕様したことのないと言う、珍奇そのものの標本でした。
しかし、これ等のことが、却ってその当時の大衆達の人気を呼ぶ動機となり、原因となって、其の始め僅かに二~三軒であったものが明治三十年頃には、七十何軒かになり、而も、それが十年も経つか経たない中に、三倍にも四倍にもなり、しかも、それが軈ては無量三千の魔女を持つ、新吉原を凌駕すると言う。全く驚くべき魔窟萬能時代がやって来ました。それは丁度芸妓崇高時代と相前後して、明治四十二~三年頃から、大正八~九年頃までの間でした。
しかし、この間には女役者時代があり、娘義太夫時代があり、乃至は又、オペラ女優時代があり、カフェー女時代があって共に、浅草繁昌につとめたことは、今更多く言うまでもありません。
兎に角、銘酒屋其の他のことは、本書の姉妹編である次の出版物に、その詳細を極めることにします。