この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一、浅草女の変遷
三、茶汲み女時代
浅草女が歴史的に有名になったのは、何と言っても水茶屋勃興時代です。最もそれ以前にも新吉原の遊女には、可なり有名なものもありますが、廓以外の女としては、先ず第一に水茶屋女に指を折らねばなりません。
殊に浅草女として、水茶屋以前に、歴史的有名なものは、殆ど見受けられません。
最も小説や脚本などには、浅草女として仮空な人物を取り扱ったものは、無論あるにはありますが、しかし、そうしたものは、この場合、何等の価値も持ちません。ですから私は先ず第一に水茶屋女から筆を起こすことにいたしました。最も水茶屋女にした處で、今日筆に残されているものの中には、全然仮空な人物もあるには、違いありませんが、しかし、少なくとも水茶屋女の中には変わり者があり、異分子が居たことだけは確かです。
そこで浅草に於ける水茶屋の由来ですが、これ等の詳細なことは、本書の姉妹編である杉野出版物の領域に属しますので、ここではほんの要領のみに止めておきます。兎に角、裏山に於いて人家が許されたのは、遠く享保年間のことで、その当時の名判官、大岡越前守の英断に基づくものです。
かく言う風に境内に、商家の建築が許されるようになると間もなく参道筋に、参拝人相手の所謂、水茶屋なるものが出来ました。が、しかし、当時商家の建築が許されたとは言え、だらしのない商売張りの小舎に類するものでした。そして表に大きな釜を■へ、床凡を比べて客の■来を待ったのです。そして又、初めの中は、無論、怪しげなる行為は行われておりませんでしたが、しかし、同業者が増え、所謂、茶汲女なるものが増加して来ると、自然誘惑の手が延び、だんだんと堕落の淵に落ちて入ったものです。
そして、それが最も盛んになったのは、明和、安永、天明頃から維新前いかけた七~八十年間でしたが、しかし、その全盛期とも見るべきものは、文化安政頃であったらしい。兎に角、この長い間には、可なり有名なる女が現れております。
殊にお花、お玉、小禄、銀■■、お雪、お■、お政、お■等は、その中でも最も顕著なもので、多くは講談や、小説の種になっております。
何れにしますも茶汲み女には、可なり美人が多かったらしいが、しかし、それは無論、高貴の美でなく、況や、気高い美でもなく、それかと言って。毒々しきの美でもなく、■■しい、■しさの美であったおです。言い換えますならば、飾り気のない■■の■に、左■けばけばしくはないが、しかし、どことなく艶めかしい装ちで、可憐にも溶けるような愛嬌を振りまいていたことが当時の遊野郎達をして、自然に咲いた■■の祐のように、いたいたしくも亦、美しく、どんなに強い感激を與えたことでしょう。
わけても彼女達は、銀■売り物、買い物にしろ、そこに■■かながらも、意■があり、見■があり、張りがあって、吉原辺りの遊女のように、■々しくも亦、はしたなく転ばなかったことが、いやが上にも■人達の威厳と、喜説を増したのです。
兎に角、浅草にとって茶汲み女の出現は、その繁昌をどんなに助長し、促進したか知れませんが、しかし、これ等のことは既に多くの書物によって、詳しく紹介されていることでもあり、又、次の出版物で、其の詳細を■くしたいと思っているからここではこれ位にしておきます。
※元資料に滲みがあり、解読不能な箇所がありました。