忍者ブログ

ノスタルジック解説ブログ

浅草女の変遷 2.浅草変遷の概略【昭和5年「浅草女裏譚」より】

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

浅草女の変遷 2.浅草変遷の概略【昭和5年「浅草女裏譚」より】

この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


第一、浅草女の変遷

二、浅草変遷の概略


 本書としては浅草の変遷など、何らの交渉も、亦、何らの関係も持たないようなものですが、しかし、よく考えてみると、浅草そのものが、今日のように繁盛し、活達な発達を遂げるに至った遠因は言うまでもなく、一寸八部の観音様が、この地に垂跡し給うこと、即ち金龍山浅草寺の開府が、それである以上、その関係を極めなければなりません。

 そこで私はこれ等の関係を少し書くことにいたしました。


・金龍山浅草寺の緑山
 観音様がこの地を選ばれ、この地に移垂されたことに就きましては、さまざまなる書物に、さまざまと書かれていますので、今更ここに喋々と説べるまでもなく、公知の事実かも知れませんが、しかし、順序としてその大様を書きますならば、現在の浅草近傍が、一体に海であった時分、正確に言いますと、人皇第三十四代推古天皇、三十六年三月十八日に、野見宿彌の末孫である土師臣中知という人が、二人の家来を伴って、隅田川の下流で漁をやったが、どうしたものか、その日に限り一尾の魚も得ませんでした。しかし、その代わりに、所謂、一寸八部の観音様が幾度ともなく網にかかりますので、家来の衆は、それを邪慳に投げ捨てるのでしたが、しかし、幾度投げても投げても根よくかかるので、とうとう根負けして、その日は殺生を止め観音様を拾って帰ったのです。そして、それを待乳山(又は富士山とも言う)に祀ったというのです。


・浅草村の由来
 浅草の由来に就いても今日、いろいろと議論されておりますが、しかし、少なくとも今から四百年前には、現在浅草の殆ど全部が海浜であり、所々にちっぽけな島があり、而も、そこら辺りがささやかな漁村であったことは確かです。少なくとも現在の橋場辺りが、宮戸川の下流で、それ以下の浅草は、一面海であったものと見なければなりません。

 ことに今から三百七~八十年前、即ち永禄年間の図絵によって見ますも、如何に浅草村が貧弱なる一小邑であったかが窺われます。

 それから浅草の由来ですが、むろん、それは後になってから、付けられたものらしく、其の始めは千束郷と、島峨村としかなかったらしいのです。或る書物によりますと、山の手辺の深草に対し海浜だけに、葭葦などが茫々と生え繁っていても、やはりそれ等が浅かったので、誰言うともなく、浅草と呼ぶようになったのであると。全く地名の由来なぞ、そんなものであったに違いありません。


・観音様の本堂
 現在観音様の本堂は、今から約三百年前、即ち桂庵三年三月から十月にかけて、築造されたものでありますが、安政の大地震にも、大正の大地震にも、びくりともです、昔ながらの壮観と堅牢さを保っていることは、まったく驚異的事実と言わねばなりません。少なくとも三百年近く一度の火災にもかからなかったことが、寧ろ不思議です。

 ところが観音様から見れば、それは決して、不思議なことでもなく、又驚異的な事実でもないのです。何故なれば、既に人皇三十五代、欽明天皇の御宇正月十八日に、自ら神火を発し全寺を焼き払われています。そして、この地は累年殺生をした汚穢の所であるから、七度び焼き除き、全く清浄の地にするとかで、その後しばしば焼き払われたから、慶安以後は、その必要が更になくなっているからです。

 それは兎に角、本堂建築の経費の高を見ますに、一万二千八百四十両一分余り(銀七百八十七貫二十五匁余り、金二〆一万千八百三十五両一部余り)金五百五十六両、米四百五十七石三升五合、金二〆四百五十七両余りとあり、而も、当時の物価の率が、米一石一両の積りとありますから、その間の事情を察するに難くありません。

 銀に今日米一石の価を三十円と見ましても、尚その経費の低■なるには、寧ろ驚かずにはいられません。何故なれば、今日ちょっと屋根替えをするだけでも、現に六十余蔓延の莫大なる経費を計上しているからです。


・浅草寺の五重の塔
 現今存在する浅草寺の塔は、一般の例に漏れず五重ですが、その始め安房守平■■が建てたものは三十でちっぽけなものでした。ところが慶安三年、本堂の築造と共に、建築されたのが現在のもので、その経費は、千七百十八両一分余(銀百十三貫六百匁余)、金二〆千七百八両二分余、米九石九斗五合、金二〆九両三分余とあります。そしてその構造は、何れも七間で、礎の所から九輪までの高さが十丈一尺で、而も九輪の高さが一丈五尺余りでありますから、都合十二丈六尺からあるわけです。


・浅草寺の四大門
 浅草寺には維新頃まで、四天門と言って四つの門がありました。其の一つが俗にいう雷門で、その二に現在の仁王門で、その三がやはり現存する仁天門で、その四は新門辰五郎で有名な新門です。

(1)神鳴門
 俗に雷門と言っておりますが、本島に言うと神鳴門、又は、雷神門とも風雷神門とも言うのです。最も正しく言うと風雷人門なのです。何れにしますも、雷門は現在の仁王門を離えうことで百七十六間余の處にあった門で、左の方には七尺三寸の雷神が安置され、右の方には同じく七尺の風神が安置されてありました。が、明和九年の大火に焼失し、更に寛政七年三月に再建しました。が、これ又慶應年間に火災にかかり、今日まで無門の彼になっております。尤も何十万円かの予算で、鉄筋コンクリートの可なり、宏■なるものを建造する案が出来ておりますから、近き将来、ほぼ昔を偲ぶものが出現するでありましょう。

(2)仁王門
 俗称仁王門はその昔、浅草寺の山門で、本堂の構造と同時に、慶安年間建築されたものです。其の経費は三千七百六十七両で、左右の間には何れも一丈余尺の仁王様が、安置されております。この仁王様は、一方が左輪金剛で、他方が右輪金剛です。

(3)仁天門
 仁天門は本堂の東に当たるもんで、その門前は丁度、■通三丁目辺りになっております。この門を俗に、矢大■門と言った頃があります。なんでも、元和以前にはなかったらしいのですが、元和■年に東照宮の廟を建てるについて、新たに建築した門であります。

(4)新門
 新門は本堂に西方にあった門です。なんでも今の消防署の處辺りが、その跡らしいのです。が、しかし、今日ではその■跡が■■で、ひょうたん池の處だと言う人もあります。兎に角、この門よりも江戸の狭客、新門辰五郎の方が余程有名です。辰五郎が新門の前に、居住していたので、遂にその名が世俗に伝わったわけです。

尚、この外に閻魔堂、薬師堂、六角堂、念仏堂、六地蔵尊、延命地蔵、仲見世閻魔、成田山、九米平打堂、転輪蔵、銭瓶弁天社等があり、社としては、浅草神社(三社権現)、十社権現、恵美須社、天照大神宮、千勝神社、稲荷大明神等がありますが、しかし、それらのことを一々書き立てたらとても際限がありませんから、これくらいな處で、一般的の紹介を打ち切り、ちょいちょいと書き加えることにいたします。


(原文、一部印刷滲みの為に解読不能な箇所あり。)
PR

コメント

プロフィール

HN:
ノスタルジック時間旅行
性別:
非公開

P R