この文章は、昭和6年に発行された「カフェ・女給の裏おもて」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
浅草と江東
・享楽のカクテル
浅草は、カフェの浅草ではない。浅草はあらゆる享楽の機関が、いわば一つのカクテールとなって溶け込んでいる別天地である。したがって、カフェが占める享楽の分野は、極めて小さいものでしかない。
資本主義的なもの、封建主義的なもの、日本的なもの、エキゾティックなもの、クラシックなもの、モダーンなもの、其の他ありとあらゆるものが、浅草ではゆれ合い、もつれ合っている。
にもかかわらず、浅草のカフェは、バーは、これ等のものを受け入れていない。これらのものを受け入れるべく、カフェそのものがあまり少なすぎる。否、カフェが発達すべく、あまりにも、諸々のものがここには発達しすぎているのだ。とはいえ、浅草にもカフェはある。そして浅草的なあるものをふんだんに持っている。
・オリエント附近
よか楼、聚楽、フランス等の古いカフェがみんな没落してしまったので、浅草のカフェで、一番古いのは何と言ってもオリエントであろう。
オリエントは、最初、カフェ・アメリカといって売り出したのだが、日米の雲行きが険悪となったとき、オリエントと改名したのである。改名してからもう随分と月日がたつ。アメリカ時代からのオリエントの歴史を書けば、浅草カフェの変遷史は、自ずからその中に織り込まれるであろう。オリエントが、銀座のライオンと並び称された時代から、現在の浅草カフェからすら取り残されようとする時代までには、盛り場としての浅草の動きがそれと同時に看取されるのだ。
オリエントの凋落は、タイガーにかほる以下の花形を引っこ抜かれたのに始まる。以来日を追うにしたがって影の薄い存在となり、昔日の華やかさは見らるべくもない。とはいえ、浅草のカフェといえば、直ぐオリエントがピンと来る。腐っても鯛という言葉通りに、オリエントは今でも広養軒とともに、浅草カフェの大御所である。
田原町から雷門へかけての電車道には、この外に、世界、ケリー、フォリー、南米がある。フォリーは、カジノ・フォリーが水族館で売り出したので、それをあてこんでつけたカフェ。だがカジノとは似ても似つかず、見世の中はいやに堅くて、カジノのナンセンスなどを薬にしたくもない。
ケリーは、チンヤ・バーの隣の、浅草浅草した喫茶店オガワの二階に陣取るバーである。世界は上野の世界と同一系統に属するもので、見世の空気もほぼこれに同じい。いかにエロチシズムが店の一枚カンバンとはいえ、店内をトキ色にしているのは、困ったものである。南米は本郷バーの隣。本郷バーが、ネオンサインの光まばゆい屋外広告をしているので、引き立たないことおびただしい。
・広養軒
田原町の停留所から、電車道を外れて、三ノ輪へ行く大通り、つまり松竹座、帝京座が大きい表を開いている通りには広養軒がある。店は、前記おオリエント、世界などとは比較にならないほど狭いが、狭いだけに、店の分を心得ているせいか、震災前から吉井勇、久米正雄、佐藤八郎という連中がよく入り浸っていた。浅草気分と、女が美しいのとでなかなか繁昌していたが、今でも、相変わらず、浅草でならば広養軒とカフェマンにさわがれている。人気の中心だったこの店の娘、絹子は、ここの女主人になってしまったけれども、お秋以下の若く美しい女が五~六人いて、浅草最高の店、ことに六区の低級さから独立していて、なので、銀座で飲み飽きた連中が、わざわざ円タクを飛ばせて、ここへ河岸を変えて飲み直しに来る。女たちが、少し気取っているのではないかと思われるくらいに、控え目である。酔った気持のよさは、銀座にもあまり例がない。
広養軒を出て、三ノ輪道を下ると、左手に、イマハン、カリューケンがある。ともにレストラン的カフェーで、いつ行って見ても、これで商売になるのかしらと思われるくらいにガランとしているし、働いている女たちも、ひどくくすぶっていて女給というよりも三流小料理屋の御あんという感が深い。
高級酒場と銘打って、一寸も高級でないアルマを先達として、左側には、ずらりと群小カフェが並ぶ。
センナリ、ブラジル、スズラン、リキュー、リリー、ホーライ、ホクツ、パンドラ、セイユーテイ。
いずれも場末のカフェに働いている女のような女給が、店の前に立ち止まって内をでものぞこうものなら、
「ねえ、遊んでいらっしゃいな」
と、かすれたような声を立てる。
・雷門附近
雷門の前には、カフェが三軒ある。ミヤマ、ナカヤ、ナイトの三つである。どのカフェも、同じように出鱈目で、陽気で、浅草らしくて、そして低級である。テーブル、家具、調度も、ひどくブロザイクにできている。
門前のよか楼は、日本のカフェ史に特筆さるべきもので、プランタンや台湾喫茶館以前のものであった。だが、今では昔日の華やかさは全然なく、群小カフェのように下卑たところこそなけれ、女給も三流どころに低下してしまった。坂本紅蓮洞、松崎天民、松本君平、生田葵山等の連中がシゲシゲと出入りしたのも、今は昔の夢とはなった。
・六区のカフェ
六区には、他の洋食屋や、天麩羅屋や、支那料理屋や、すし屋、土産物屋や、等などの浅草らしい店々の間に、カフェやバーが点在していて、クラシックな、ここの街に、新時代の空気を注ぎ込んでいる。
最近できた、コザックは、その名が示すように、すこぶるエキゾティックなもので、ここには、公園劇場や、宮戸座あたりの俳優が絶えず出入りしている。、昭和座の楽屋は、この店の裏口に続いているとさえ言われている位だ。この店の洋酒のうまさは、格別である。
ニュー・オリエントは、さすがに大オリエントを新しくしたものだけに、六区にある他のカフェをぬいて堂々たる設備をもっている。電灯の色彩も落ち着いているし、家具、調度もよし、店のデザインもなかなか気が利いている。それに女もよい。浅草人の好きそうな日本的な女や、いやにあだっぽいのや等等が、各々の特色を生かしている。店の大きさも適度だし、位置も悪くないから、やがて広養軒と肩を並べる店となるであろう。このほかに区役所通りを中心として、ミニオン、ミノリ、キラク、アズマ、バウリスタ等がある。バウリスタは、かつて持っていた名声を取り返すつもりか、最近店の様子を変えて、女給を大勢入れたが、大勢は取り返すべくもない。
公園劇場の一つ手前の横丁は、カフェ横丁である。ここには、青い鳥、ナポリ、チェリー、トキワ、エンジョイメント等の小カフェが並んで、いつもヂャズなど奏でて景気よくやっている。ちょっと、新宿の新歌舞伎裏を思わせるが、環境も違うし、それに店もずっと小さい。したがって、四囲の飲食店に気おされて何だかひどくせせっこましい感じを表す。
日本館横には、カフェ・バットがある。さらりとした店内装飾は新感覚派を思わせるし、バットという名も、若い連中には、何となく魅力がある。それかあらぬか、この店には、川端康成をかこんで、カジノ・フォリーの連中がよくやって来る。これを真似て、浅草を中心として、浅草のジャズの中から何物かを採り出そうとする群小作家たち、かもし出される雰囲気の中から何かをつかみ出そうとする。左様、がらにもなくである。モボたちが盛んに出入りする。
また、場所がらだけに、新国劇の連中と情話をつくった女もあれば、明石潮一座の某と一緒になった女もある。とにかく、浅草のカフェ中では面白い部類に属するものである。
金龍館の地下室にタイヨー、東京倶楽部の地下室にジャボン、帝国館の地下室にカフェ・ロックがある。いずれも、店に珍奇な構造を施して、新時代がかった女を入れて客を呼んでいる。こころみに、カフェジャボンの前に立って見給え。カフェ・ジャボンの下には、時代の尖端をはしるキョウ楽の殿堂と大書してある。左様、ここは、文字通り、時代の尖端を走っている。すみのボックスに陣取って、ものもの二時間も部屋の中を見回していれば、時代的なアラユル情景に接するであろう。客と出来る女給、連れ込んできた女と約束が成立していそいそと出て行くモボ、日本マゲの女、断髪、店員、ハイユー、学生くさぐさの人種が店の扉を排して出没し、それぞれの目的を以て、目的をはたして行く。
浅草ならでは、見られぬ情景だ。
・江東のカフェ
隅田川の彼方の二区は、生産の巷である。銀座、浅草が代表的な消費区なら、江東の二区、本所、深川は代表的な大東京の生産地帯である。したがってここには、タイハイそのもののようなカフェの世界、エロとグロの歓楽境は、葉にしたくもない。と思いきや、時代の風は遠慮なくこのあたりにも吹き付けていて、町のあちこちには赤い灯、青い灯、が遊野郎の心をそそるかの如くに、きらめいている。だが、さすがにここには、浅草、京橋、山手方面に見られる様なアメリカ文明そのままの、あまりにもエロな、あまりにもバタくさいカフェは少ない。それに数からいっても、決して多くはない。
両国橋を渡って、国技館近くに際立って美しい装いを凝らしているのはカフェ・トヨダだ。これといってピックアップするほどの上玉はいないが、これといって顔をしかめねばならないようなドテシャンもいない。粒のそろった上の部た。
ミド一丁目あたりは、いわば本所の歓楽境。群小カフェが、目白押しに並んでいて、思い思いの、といってここには、都会人のリファインされたファストレートなコノミに適するべくもない、意匠をこらして客を招いている。この中にあってのピカ一は玉屋だ。エロサーヴィスも満点に近く、端的で、粗野で、そのくせ親切でホロリとしたところのある江東児の気風にしっとりとした店だ。こんな店が、このあたりに、こんな形式で、立っているのはうれしいことだ。
三丁目には、美人女給百五十名と称する某カフェがある。だが、店の中を覗いて見たら、せいぜい四十人ということろ。人数の多いのがほこりであるかの如く、女の形をしたものならば、誰かれの区別なくかき集めている。
錦糸堀に美人バーがある。名前は美人バーだが、美人の居ないこと痛快なほど。ただ、エロサーヴィスが相当の人気を呼んでいる。
森下町にはヤマトがある。女給の数十四~五名。店の設備もいいし、洋酒もうまいし、それに女もよい。
一体安値を好む労働者の街である江東では、壮大?なカフェは存在しない。猿江、柳島、洲崎等僅かに終点の客を狙う、群小カフェが散在するに過ぎない。
我々が生きている現在の世の中において、最も必要で、大切な部分、すなわち生産の部門、に活動する彼等労働者にも、ブルジョアどもがきんてんしていると等しい享楽の生活が、生活される時は果たしていつであろうか。江東の兄弟よ。その輝かしき未来の為にがんばれ。
そして、そして、強健なるエロスの為に、そのささやかなカフェで、のめ、のめ。