この文章は、大正8年に刊行された「東京の解剖」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
十一 水の東京
江戸趣味と隅田川
一口に隅田川というけれど、厳重なる名称から言えば、隅田川とは千住から吾妻橋辺りまでの流域を言うので、千住より上流は荒川、吾妻橋、厩橋間は宮戸川、下流を大川と区別されている。而して往昔は隅田川は利根川の下流を合わせていたので、川幅も頗る広く、水勢も甚だ盛んであった為、沿岸の低地は多く沼沢入江等をなし、潮汐が常に満ち干して蘆萩の洲渚渺々として武蔵野の茅茨に連なっていたそうだ。即ち今の本所深川の大部、それから浅草の北部一帯は一面の池沼であって、其の水は上野公園の不忍池と相通じ、中間に姫池という大池があったという。徳川氏が天正十八年初めて江戸城に入るに及んで、姫池及び千足池等の埋め立てを命じ、爾来代々の幕府が工事を継続して漸次、本所深川は埋め立てを行ったのである。近くは東京市が更に下流月島越中島等の埋め立て工事を行って、現に其の工事を継続している。隅田川の風物景情はいわゆる隅田堤に於いて最も富麗なるはいうまでもない。隅田川の天然が流域の人事と相まって、東京人の情緒を優雅清爽ならしめつつあるは自然の理であって、またその灌漑の便が下町を繁栄に導きたるは言を俟たぬ。而もその興趣は殊に上流に於いて顕著なるは金龍山浅草寺、待乳山、新吉原の名が、長江十里の波に響いているに依っても知られよう。長唄「隅田川」の一節に
いつしかに、君を待乳の山々越えて、通う庵崎駒形や、千鳥鴎の心があらば、白髭さんへ願かけて、一寸お顔をみめぐりならば、それこそほんに首尾の松、それそれそれそれも添ふかいなあ、えもん坂、今宵くるわの逢瀬の首尾も、橋場の雨にしっぽりと、君は三谷の三日月さまへ、真実心から願かけて云々
とある如く、また清元の「梅の春」に
若海布苅るてふ春景色、浮いた鴎の一二三四、いつか吾妻へ筑波根の、あのもこのもを都鳥、いざ言問わん恵方さえ、よろず吉原三谷堀、
という一節があるが如く、其の他江戸趣味を標榜せる歌謡は概ね上流を背景としている。想うに隅田川の風景は橋場(浅草)付近からして、閑静の境から漸く風流の域に入り、画舫浮かび猪牙走せ、柔ろきしり絃声ひびき、その間の情景が東京人士の気風好尚に不知不識の感化を與えしは争うべからざる事実であろう。
永代橋の納涼
隅田の流れが海に注ぐところ、長梁かけわたして両堤を結ぶ。虹霞長くごう背ひろく、げに欄干に依って夏の夕べを涼むまた東京第一の勝場であろう。もしそれ晩餐の箸を棄ててここに長日の炎を洗わんか、海風徐に来たって神気をさわやかにするもの例うるにものがない。人家の打ちつづく両岸の灯火は水に流れてチラチラと動き、岸に臨む層楼の軒には吊提灯が潮風に揺らぐ、而も黒影参差たる月島の煙突。暗夜に景あり月夜また景ありである。もとより大阪安治川口の日に千艘を吐くの繁華に比べられないけれども、港口の巨船大舶纜を卸してぞジクロ相フクむ所、キショウ高く舷灯を吊らして青点紅点水にきらめき、両国橋から下る屋形船、鉄砲津より上がる荷船、一舟一舸に火あり燈あり。更に遠く眺めやるならば佃の沖には網引く舟があり、釣する舟ありで一瞥一顕唯風流の夜景のみではない。之が若し昼であったらジョウロ習々として兆候を下るありと思えば、軽帆飄々として上流に遡るがあり、水波淼漫一望コウとして長江を見るようで、両岸の人家石階商舶客舫亦尋常の観でなく、港口に繋がる船のソウコウからは炊水をこぼす音、豆腐蒟蒻蕎麦果物を商う販舟の呼び声、一船より叫ぶ声、他船から答うる声、陸上から招く人ありと思えば船中から応ずる人ありで、亦大橋河畔一種の特色を見る事が出来るのである。
両国橋の雑踏
由来両国橋は川開きを以て名がある。かの明治三十年、川開きの夜、旧橋が落ちて、夥しい群衆が溺れ死んだことは未だ世人の記憶に新たなる所であろう。今日でも其の川開きの夜はよしや橋が落つるとも、よしや煙火に川が埋まるともいう勢いで、大都百万の群衆が市中の八方から来たり群がって、其の橋畔は人の山と化して終う。都門の炎塵をこの一橋に洗おうとして、却って苦熱に汚されるという雑踏を呈するのである。其の四、橋辺左右の貸座敷は只に吊燈を照らして軒を焦がすのみならず、更にテイセイを漲らして艶を添うる。素より塵わん喧しきに過ぎ、幽邃を欠くといえども、平時はまた東京唯一の勝区たるを失わないのみならず、納涼一遍の場所ではない。即ち三区の要衝四衛八達の中心点であって、陸上の人喧、水面の塵影、本所深川へ通う炊事の水船あり、葛西へ下る田畑の肥料船あり、納涼の屋形船、往来の小蒸気船、氷水菓子を売る船、蕎麦饂飩を商う舟、一舸の火、一船の燈、点々相連なり相交わって、水上一面星を浮かぶるようである。水面より橋上を見上ぐれば頭上に市街あり。橋上から河を望めば脚下にまた市街がある如く両岸の客亭石階を畳み、勾欄高く水に臨むところ、紅燈、花セン、朱器、銀チョウを陳ねてヒョウ客の蛙声、ゲン娼のトツ語も艶に、所謂ゲン歌湧きショウ声覆るの趣がある。また東京の名称の一つに数えねばなるまい。
千住大橋と田圃趣味
東京の北端、市塵を避くるに一大橋がある。即ち千住大橋であって両国から水上一里の上流に架かり、真正面の鐘ヶ淵を控え紡績の煙突兀として月明を彩る。月明かりにして景情に富み月なくまた景を妨げない。両岸は左程ひろくもないけれど、水面静かに満を持し、絶壁の見るべきものはないが池塘また能く潤えりで、風は一帯の蘆萩を揺るがし来たり波は筏に促されて動く。水面に土船あり、苫舟あり或舟は竹木を或る舟は柴を積んで岸にかかり、ある舟は野菜を載せて下流に棹さす。一葦一葉、一カ一舟、眺めは自ずから自然に富み、遠く篝を焚く舟があるかと思えば、近く網を卸す舟があり、橋上の観望、他の勝区と趣を異にし、時に上流筏の浮かぶ辺りに蛍の飛び交うを見、下流得水カイのミズタマる涯に蛙の鳴く声を聞き得る。橋は勿論東京より千住に至る唯一の要路である故、昼は車馬絡エキとして通じ、行人の往来また頗る殷賑を極めるが、夏の夜或いは春の夜空きの夜に足を運んで橋上に佇まんか、両岸人家の贈答、燭影光華遠近をかがやいて其の田園趣味をまたいうべからざる特色がある。
吾妻橋と新大橋
吾妻橋はただに納涼一遍の場所ではなく、その幽趣に富める上に於いてはおそらく東都第一であろう。今は鉄を結構して橋材としてあるので其の風致は古のようではないと言え、春は墨堤十里の桜花を煙霞の間に眺むる事が出来、冬は雪トウの眺めを恣ままにする事が出来る。川流にワンカンのところがなく、岸に凸凹なく、大都会の橋梁を架する所としては、場所が平凡で、橋辺に何等絵画的の景物がないとは言え、当面に隅田の堤を控ゆる所、景色自ずから寂れて田舎に近い感じが味われる。然し東京唯一の歓楽境浅草公園に近い事とて、車馬のラクエキ、行人の往来共に両国に比肩するの観がある。永代と両国の間に架せられたるものが即ち新大橋で、何ら形勝の賞むべき者がないけれども、向署のハンキンを洗うには十分である。而して橋幅も余りひろくないが、地勢やや他橋に比して高いが故に眺望妙である。黄昏の頃、橋の中程に立って上流を見渡せば、水面八~九丁を距て両国に対し、一道の長梁虹の如く遠望するに頗る景趣がある。そして更に森を見、煙突の兀々たるを見るに及んでは一種の情緒を抱かずにはいられない。而も川流の湾曲する所深くして一面湖水の如く、チョウタン深き所舟楫水を裂き艇舸能くはしり、両岸の人家遠景近景相対して影濃やかなり処。真に長江大河の観に富んでいる。夜も更くる頃、此の大江の静かなるに対し独り佇まんか、天地宏廓四面リョウリョウとして夜の東京もまた自ずから詩の領分を化するを感じ得るであろう。