この文章は、大正8年に刊行された「東京の解剖」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
東京自慢と東京名所
十 三越と白木屋
東京で先ず三越、白木屋は東西の両横綱、日本橋を境にして、店飾りから内部の装飾設備に至るまで、負けず劣らずの大店だ。新橋からは北行きの電車で京橋を渡り、日本橋停車場で降りると向かって右角が即ち白木屋、寛文二年の頃、美濃の住人、大村彦太郎が現所へ小間物店を出したのが初めとやら。今では三越と相並んでの大呉服店、売り出し当日の客来が平均三万を下らずと聞いてさえ繁盛も思いやられよう。陳列場も立派なれば設備も完全している。子供の遊戯室、軽便お手軽な食堂、痒い所へ手が届くような接待法は一度同店を訪うた人の必ず口にする所で、名は呉服店なりといえども、日用のあらゆる商品を網羅し、買い物があれば届けてくれる便宜もあれば、帰りに大きな包みを下げるに及ばず、直ちにお歩いで日本橋をわたれば数丁にして、左側に優美宏壮なり一大白館、これこそ三越とは聞かずとも知れる。入口の両側には大獅子が猛々しく控えている。下足を預けて上がれば押しも押されぬ東洋一のデパアトメントストアー、立派な陳列棚の数々に何を選ろうと心のまま、上階へ上がろうなら自動階段、エレベターどちらをとろうと勝手、楼上の応接室から直ぐに庭園とは極く新しい思い付き。瀟洒な茶室も建てられて空中庵とはさても気が利いたり。ここに立てば関八州は指呼のうち、貴賓のここに茶を召したのも二度やサンドならずと。種々の展覧会も月々開かれる。呉服物は愚か日用品一式、化粧品、舶来品も備えられ、註文とあらば年恰好さえ申そうなら、嫁入り道具も即座に調達せられ、直ちに馬車、自動車で運ばれる。成程、手軽ではあるけれど半襟一掛、手拭一筋の註文はできまい、と仰せある方もあらんなれど、三越、白木両店共、そんな姑息な商売は仕らず、十千万両を積んでの客も、手拭一筋のお客でも、お客に差別はあるまいものを何とて粗略に致しましょう。只陳列棚を観て下さるだけでも、それで両店は光栄とする所、何のご遠慮に及びましょうと。
江戸名物会席料理
お手製の西洋料理は旦那のお好み、自分は匂いを嗅ぐも不快なのよ、と仰せある江戸前のお内儀は尚更のこと、一寸東京見物かたがた江戸名大の名物食べて、話の種にしようとある方に、食堂楽のご案内。先ず上野の駅を降りたなら、公園の常盤華壇、ここは会席を専らとした大勢の宴席にも向けば、二人三人の浅酌にも適し、場所は名にし負う桜ヶ岡、三層楼に上らんか東京の半分は眼の下なり。本会席が三円、中酒が一円五十銭との相場、これから山を下りて松坂屋を左へ取ると同じく懐石専門の伊予紋、本会席が先ず二円、中酒が一円五十銭、若しそれちょっとの中食ならば元黒門町に揚げ出しあり、広小路の忍川、五條町のだるまで沢山だ。日光を観れば結構を言われぬように、東京で八百善の料理を召されれば料理通とは申されじ、江戸時代から凡て抹茶の例式を追うているので、本会席で先ず三円五十銭、中酒で二円五十銭という相場、ここの料理の特色は包丁の冴えと料理の吟味に念を入れるので、俎、包丁共に葱を切るのと野菜を刻むのとそれぞれ別になっている。其の他東京の会席には連雀町の金清楼、宮本町の開化楼、浜町の花屋敷に岡田、新葭町の百尺、高砂町の福井楼、築地で有名な香雪軒、野田屋、竹川町で花月、烏森で湖月、芝公園で紅葉館、日影町で濱の屋、赤坂で八百勘と三河屋、牛込で吉熊、浅草平右衛門町、亀清、本所では八百松、植半、柳島まで遠伸ばせば、そこに橋本というようなものではあるが、いずれに似たり寄ったり、花月、香雪軒がちょいと一頭地を抜き、紅葉館は風変りといえば風変り。ここに同じ会席とは言條、ぐっと風変りの星が岡茶寮というがある。麹町公園は老杉繁れる中にあり、韻士清遊のところとあって、お世辞一つ申さぬが一つの名物、設備は凡て茶道によって、菓子も料理も神さびたもの、だが会員組織になっているので、一寸誰でもという訳には参らず、会員の紹介を得るの必要がある。
食道楽案内
△蒲焼
東京の蒲焼といえば先ず饗場氏富島町の大黒屋、江戸時代からの旧家で、一人前一円とあって大小好み次第、次に新富町には竹葉あり尾張町に支店もあり、一人前一円以上で大串ならば二串位、座敷はちいと陰気だが本店には風呂の用意がある。其の他屈指の店は麻布で大和田、神田で神田川、浅草でやっこが名を知られたり。
△牛鳥
食べるなら滋養をこそと思うなら、牛では四谷の三河屋、土橋の黄川田、京橋の河井などが先ず上の部、取りならば日本橋新泉町の菊水、未だかつて魚肉を用いぬ会席流、五品で一円と半、鍋が二十銭。京橋の壽鶴亭またこの類なれども、ここでは魚も使うから鳥の嫌いな者には煮魚、刺身自由なり、この外、下谷元黒門町の鳥又、鳥八十、須田町新道の牡丹など。
△蕎麦
これは先ず藪と更科とあり。藪は堅く更科は辷り、東京の蕎麦はこの二種で持っている。藪は神田の連雀町、更科は麻布の長坂、藪は知らずこの長坂は更科では全市の註文を一手に受け、驢馬に配達車を挽かせている。種物は天麩羅ばかりでその天麩羅は伊勢海老に限られ、不漁の時は種物はお生憎様。
△天麩羅
これまた東京の名物で、日本橋堺町の三定本店、銀座で天金、芝で橋善、今庄など。この内天金は芝海老に貝柱がお定まりで、海老が全くない時は直ぐの休業の札を掲げる。ごはん付き一人前三十五銭、お昼食には極めて手軽であろう。橋善は間口二間ばかり先ずこれが有名かと驚かされる。天麩羅は並十二銭、上十六銭、それに刺身というものも出来てふたつながら風味卓越!半纏着と紳士、夫人とお神さんと差し向いて箸を採るの奇観はここならでは見られず。二つながら忙しいので女中のお粗末には恐れ入らねばならぬ。
東京の芝居
東京に於ける劇場の起源を訊ぬれば、即ち寛永の頃、猿若勘三郎と申す者、日本橋に歌舞伎を開き、次いで岡村長兵衛なる者、京橋木挽町に山村座といえるを起こした。爾来、年を閲する二百九十余年、起きては倒れ、倒れては起きて、現今市内に在るもの二十座にも余り、昼の開場、さては夜の興行、いずれをそれと定め難けれど、主なる者は歌舞伎、明治、新富、本郷、市村、有楽、帝国など。帝国劇場は最も新しく、女優劇場といえばいえる。また最も古きは新富座で万延三年の創立と伝えられ、明治になってからも守田座となり、深野座、都座を経て固の新富座に逆戻り。常に一~二流の俳優で固め相応の入りを占む。明治座はハイカラ流の結構、遣り口が派手やかで客を呼ぶ。初め両国広小路にあって俗におででこ芝居と称せられしが、後久松長に移って喜昇座といい、更には現所へ転じて千歳座となり、今の小屋は三十四年の新築で明治座と改めたのである。本郷座は明治六年の創立、初め奥田座と称し再三焼け出されたが、現小屋は三十四年の新築で、新派俳優のネジ地で観客に男女学生が多い。其の他に日本橋中洲の真砂座、浅草専属の宮戸座、同公園の常盤座、本所緑町の壽座、神田三崎町の三崎座、溜池の演伎座、深川富岡門前の深川座、浅草の柳盛座、開盛座、四谷荒木町の瓢座など、大方は中流以下の俳優で固められ、下様の興を呼んでいる。新旧俳優の主なる者を挙げてみれば、市川で八百蔵、高麗蔵、寿美蔵、左団次、猿之助、小団次、女寅、尾上で梅幸、菊五郎、榮三郎、松助、福助、中村で芝カン、時蔵、吉右衛門、沢村で源之助、サッショウ、宗之助、市村でも一人羽左衛門、女俳優では市川九女八、同莚女、新派の川上貞奴、新俳優には伊井蓉峰、中野信近、福井茂兵衛、藤沢浅二郎、児島文衛、河合武雄、佐藤歳三、水野好美等。そこで場代の一儀であるが、これは時と場合、出演俳優の投球によって一様ではない。が大掴みにしたところ歌舞伎、明治、新富等の大劇場では桟敷七~八円、小劇場は三円位が相場、大劇場の土間で極切り詰めた勘定が一人前先ず三円、小劇場なら其の半分というところ、即ち大劇場を一度観るか小さい所を二度見るかというつり合いである。
花の上野
東京で花見といえば誰しも先ず上野、向島、飛鳥山、九段、さては小金井に指を屈する。上野の櫻は寛永二年即ち今から二百九十年、東叡山の開基以来、将軍家に於いて年々植えこんだものであるから、随分老櫻が多く花時になると満山花雲に覆われる。ここには彼岸も一重も八重もあるが、殊に彼岸は東京中で最も早く、中にも清水堂前の二~三本と動物園前の一~二本は彼岸の中日あたりから開きそめる。「そら上野の彼岸櫻が咲いた」で東京全市の人心が落ち着かなくなる。又、清水堂の後ろに秋色櫻というのがあって、一株の枝垂れが石井の上にかかっている。其角の高弟秋色女の「井の端の櫻危なし酒の酔」という句で名高い。上野の花盛りは大抵四月の五~六日から十二~三日の間で、先ず三枚橋から山王台を右に見て清水堂の下を通り、真っ直ぐに竹の台へ行こうとする所が見所である。竹の台の正面には博物館の方へ一文字にずらりと桜が植え込まれてあって、これも中々に見物である。また不忍池の弁天へおりる石段の上に立って、池を超えて遥かに本郷の向ヶ岡を望むと、家々の間を木々の間を点綴している花が見えて、kれも捨て難い眺めである。上野は花が揃っている上に何と言うても市街にあり、それに花時には大概博覧会のようなものが催されているから、都人士は言わずもがな地方人の観光も夥しく、さすがに広い公園も人で溢れるけれども、何分市街を目の前に控えての事であるから、向島などに見る如き馬鹿騒ぎをするものは少ない。夜に入って華やかな大電灯の光に照らされる花の眺めもまた、一段の趣があって、まるで白雲が地に宿ったよう。その艶なる眺めに恍惚として蹲っている人もまた少ないのである。
花時と向島
向島の花は上野より四~五日遅れて盛りとなる。けれど向島を見て上野を見たとて決して遅くはない。それに上野と向島との間は電車の便も解り易く、歩いたとてどれだけでもない。又、大川には汽船の便もあって人を運んでくれる。先ず電車を雷門で降りて吾妻橋に立ち、上流を眺むると隅田堤は長い長い花の雲を戴いて、群衆が陸続として花に分け入る様が眺め得られる。さて札幌ビール会社の前を過ぎ枕橋を渡って愈々土手を出るともう桜花の隧道で、其角の句で名高い夕立や田を三囲の社を過ぎ、牛の御前近くなると花はますます其の美を競い、人はいやが上に雑踏する。水には例の名物競争があり、陸には浮いた浮いたの夢幻境、酒樽叩いて踊るあり。茶番式の異様な扮装に我を忘れた者もあり、手習草紙の鎧着た五郎政宗が転がっていたり、頭を剃って白ハチマキの弁慶が管を巻いていたり、風呂敷の素ほう着た朝比奈が通りがかりの若い大正姫御前に酒を進めて逃げられたり、子供の赤いちゃんちゃんこを着た道化者は沙汰の限りにあらず、何しろ向島は昔から都下第一の雑踏を極め、従って警察事故の如きも驚く程である故に向島の掛茶屋の収入は大したもので、優に一年の糊口をつけるに足るという。殊に繁盛を極めるのは言問団子で、次が長命寺の桜餅、食べ物では鳥料理、鮨屋、一品料理などである。而してこの賑わいは陸ばかりでなく川の中でもまたすさまじい景気である。屋形船はもとより傳馬を擬した花見船が、いずれも彩旗を川風にヘンヘンバンと靡かせて、三味線や太鼓を乱調子に囃し立てて水神の夢を驚かせている。
俗離れした飛鳥山
上野から汽車に乗って行けば日暮里、田端を越えて次が王子、ここで下車るとやがて飛鳥山で、汽車賃も二等で二十銭位である。王子停車場を出でて踏切を越すと小さい川がある。これが紅葉で名高い瀧の川の支流であって、清冽な水がサラサラと流れている。橋を渡って左手の小高い所が即ち飛鳥山で、右手に折れて川に沿うて行くと王子の権現はぢきである。飛鳥山公園は南から北へと至って緩やかな勾配がついていて、地上波至る所、緑の芝生を以て敷き詰められ、広さ一万四千坪ばかりの山上、あやゆる木々は悉く櫻で紅くなっている。この滑らかな芝生に寝転んで瓢箪酒を呑む人もあり、赤毛布の上に重箱を拡げている連中在り。傍らには小学校の運動会もあるという具合で、上野や向島に比べると自ずから俗離れの感があり、家族携帯の観櫻会を開くに、至極好都合である。北へ上り詰めたところにはずらりと掛茶屋が出来ていて、すぐ眼の下が王子町である。ここへ来ると製薬会社の機械の音が多少感興を殺ぐけれども、一望カツ然として遠く東に房総の連山、西には富士秩父、北には二荒筑波を望み得るのみならず、近く萬頃の伝やを見下ろし、微かに隅田川を行き交う白帆を認め得るなど、風景なかなかに壮大にしてまた佳絶である。而も市街からざっと里余しかないのであるから、運動がてらに老人子供など同伴で歩いて来るにも頃合いである。故に多くは一家族挙って弁当を携えて来て家庭運動会や家庭観櫻会を催す人たちが大部を占めているのである。