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東京市膨張の趨勢【大正6年「東京の解剖」より】

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東京市膨張の趨勢【大正6年「東京の解剖」より】

この文章は、大正8年に刊行された「東京の解剖」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


一 東京市膨張の趨勢

都市文明の繁栄

 哲人エマーソンは「文明の進歩は贅沢品の消費高に比例す」と言ったが、実に其の通り、都市の繁栄と一国文明の縮図とか、東都一流の某呉服店に就いて見ても判る。雑貨売り場の千紫万紅、寄切室の雑踏、休憩室の音楽、古雅の茶室、食堂には洋食、其の他の設備があり、庭園には噴水奔騰して空中に虹を描いている。吾人はこれ等の装置の優麗なるに一驚を喫するといわんよりは、寧ろ三越呉服店の如きをして、ここにいたらしめた二十世紀の文明に無限の感慨を懐かざるを得ない。で織るが如き紳士貴婦人の間に交じって陳列場を見ると、紋御召、縞御召、緞子、金襴、丸帯一本三百円以上の物も珍しくないという。是くぉ店員に質すと、百円以上買い物をする客は一日百人近くあるとのこと。

 北米合衆国のワナメーカー、又は英京倫敦のホワイトレー百貨店を観たる眼を以てすれば、三越呉服店の如きは殆ど言うに足るまい。然しながら、紺暖簾を垂れた二十年前後の呉服店を以って、今日の三越、白木屋、松屋等の装飾、規模を見れば、何人も隔世の感を起こさざる者はあるまい。のみならず衣服に支払う金高である。明治五~六年の頃、横浜の成金長者、小野某等が、百五十円の雨払いトンビを買ったとやらで一斉の豪奢と称せられた事を思うと、今日はどうであろう。衣服に三百円、四百円の物を着けているのはザラである。

 呉服店、雑貨店の売り上げはよく世相の一面を現わしたものである。けれども世人は三越、白木屋、松屋等の繁盛に対して、少しも奇異の眼を放つ者はない。紡績会社や煙草工場の女工ですら、袖を列ねて壁御召だの、小紋縮緬だのと一枚の単衣地に十五~二十円の金をおしまない。これ等呉服店の繁栄は何を意味するやといえば、取りも直さず文明の進歩である。都市の発達である。東京市膨張の趨勢は、一呉服に限らず、あらゆる方面に於いて奇異と変化とを現わして居るのである。


東京の人口と市民の負担

 先ず東京市の人口を見よう。明治十年頃には東京市の全人口五十八万三千。今日の大阪よりずっと少ない。名古屋と横浜を合わせた位のものであった。然るに今日はどうかと言えば、戸数は五十八万七千七百七戸。人口は二百二十四万四千七百九十六人。明治十年来の東京市の膨張は、今日の大阪、京都、名古屋、この三大都市が、武蔵野の一角、旧江戸と称せられた都会の間に出来た勘定である。

 世界で最も大きな都市は英京倫敦の人口七百万、次は紐育で四百万、第三は巴里の二百七十万、伯林及び市俄古は共に百八十万位であるから、我が東京市は今や伯林、市俄古以上、世界大都市の第三位に在るものと言えよう。

 そこで最も著しい発達は、東京市政の歳計の膨張である。明治十年頃は、東京市一ヶ年の歳計十八万三千余円、市民一人の負担額は僅かに二十銭強であった。然るに日清戦役後、ズンズン膨張して、追加予算を合して二百五~六十万円(三十一年以降)に上り、今日では千二百万円に増加している。即ち人口の増加は三十年前に比べると約四倍であるが、歳計の増加は二十五倍に進み、市民一人の負担額は五円以上に飛んでいる。

 歳計の増加に比較すると、人口増加率の如きは実に微々たるものである。然しながら明治十年頃にはわずかに二十万円内外であった市民の負担額が、日清、日露の両戦役を経て千万以上に発展したのも無理はない。ここに数字を避けるけれど、商業に工業に至大の「発達を遂げているものと思うと、東京市の進歩は全く目覚ましいものがある。


東京市民の食物

 さて食物の方面から東京市の今昔を調べて見ると、明治十年頃、魚市問屋は五百九十戸、仲買五百一戸、その売り上げ届け出高は七十五万八千余という旧い統計を見た事がある。次に青物問屋は五百五十五、仲買五百六十四、売上高三十万九千円。即ち、明治十年頃の魚類及び野菜の消費高は百六万円。一ヶ年一人の消費高、僅かに一円五十銭であった。

 然るに大正三年の統計によると、魚市場の売上高五百八十八万千四百円、青物の売上高は百十三万四千円。両者を合して市民一人の消費高は、平均五円内外である。けれども実際はこんな少額なものでない。地方人が一年に十万人以上、東京市に入って来る筈であるから、市民在住者二百万と見積もり、仮に一人一日五千としても一ヶ年の消費十八円二十五銭、総計約三千万円になる。

 それから肉類の消費高は、明治十年頃、市民の食膳に上った牛は六千百九十九頭、豚は六百十三、羊八十二、合計六千八百八十九頭であった。然るに大正の今日では牛五万三千二百頭、豚一万六千八百頭、馬五千二百頭、合計七万五千二百頭、これを斤数に直したら大変なものであるが、右は東京府下だけの屠獣数で、更に関西地方からの輸入を加算すると、一人一ヶ年の消費高は九斤平均。一斤の価格五十銭とすれば実に一千万円に上る。何と莫大な物ではあるまいか。


東京市各種の統計

 東京市中に一ヶ年幾何の遺失物と拾得物とあるかといえば、遺失物は金高に直して八万六千五百三十円、拾得物約三分の一で二万九千八百円。

 それから棄子が一ヶ年六十三人。次に自殺者の数は一ヶ年平均三百五十五人。夏の八月頃と暮れの十二月が最も多い。之を以って見ても都会生活の困難が想像されるであろう。

 さて又、東京市の結婚数は、人口の増加と比例して年々多くなるばかりであるが、最近の統計によると一ヶ年二万千三百二十組、即ち人口千人につき十人強となる。又、離婚は一千九百八十組、即ち、千人につき一人九分。一日に五~六十組の婚姻があれば、そのうち五~六組は離婚となる訳である。


初等教育の現状

 明治三年、初めて東京府下に小学校の儲けあるや、学校の数は芝増上寺内源流院、市ヶ谷洞雲寺、牛込萬昌院、本郷丸山本妙寺、浅草蔵前西福寺、深川森下長慶寺の六か所に過ぎなかった。月謝は寺子屋流で金二分。それが明治十年頃になると、公立小学校百四十、私立六百八十二、合計八百二十二を見るに至った。而してこんにちは如何かといえば、公立百十六、私立八百五十四。数に於いては僅かに百五十位しか増加していないが、然し其の設備と規模とは勿論、昔日の比ではない。教員は正教員五千三十人、准教員一千百四十人、又、就学児童数は十八万三千余人。内男子九万二千二百人。女子九万一千余人。東京市全人口の約十分の一を占めている。


都下来往の地方人

 倫敦や巴里の如き欧州の大都会でもそうであるが、東京は或る意味から言うと、田舎者の集合しである。北海道や布哇、或いは北米、加奈陀等の諸都市と同じく一種の新開地である。植民地である。東京の商工業者は、半ば地方人の需要によって存在していると同様、東京市それ自身が、地方人の来住によって今日の膨張を見たのである。その証拠には東京市民年々の出産数と、地方来住者の数とを比較して見ると分かる。出産数は一ヶ年男女合して八万三千人位であるが、地方来住者は区役所に居留届を出した者の数だけでも約九万人ある。それに無届の者が半数以上あるから、少なくとも一年に十七~八万の来住者。東京市が年一年と膨張するのも無理はない。
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