この文章は、大正8年に刊行された「東京の解剖」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
二 東京市内の大地主
土一升金一升の東京
都会の生命は商工業にあるのは今更いうまでもないけれど、地主の勢力のある事は、都会も田舎も変わったものではない。殊に東京市の如き、年々幾万と人口の増加していく大都会にあっては、地主の勢力は素晴らしいもので、地所の所有者は懐手をしながら金が増えるばかりだ。やれ株式だ、それ新事業だといっても、相場の変動によって損をする事があるが、地所の持ち主は永久不変、年々価格は昂る一歩で、損をする事はない。如何に場末の荒れ地でも人口の増加と共に開拓されて、立派な町になって行くから、十年前に坪十円位の所が、今日では五十円にも七十円にもなっている。現に小石川白山下の窪地は、二十年前までは二千坪で六十円という捨値であったが、今日では一坪三十円余で、二千坪で六万円、実に千倍の高値となっている。又、早稲田の鶴巻町辺は明治三十四~五年頃まで、坪五~六円にしか値せぬ茗荷畑であった。それが早稲田大学の繁盛につれて、今日では立派な町になると同時に、一坪四十円位の相場である。
昔は日本橋の大通りを土一升金一升といったが、今では土一升金二升である。そこで小金のある者は家作を思い立って、ウンと資本のある者は、土地の買い占めをして、十年後には十倍にも二十倍にもしようと楽しんでいる。左に東京市の大地主を列記してみよう。
都下大地主の雨大関
東京市中の人口は二百万余であるが、その中に地主なるものは約二万、然し大地主というのは極めて少数である。横綱は何といっても三菱家で、これに次ぐ東西の大関は三井家と峰島家である。其の所有坪数は、
▲二十二万千七百九十二坪 三菱家
▲十七万二千坪 三井家
▲十一万旧千坪 峰島家
岩崎、三井の名は知らぬ者はいないが、峰島といっても知らぬ人が沢山ある。これは尾張屋銀行の持ち主で、其の財産はコウ、キヨの女名義になっている。今仮に、一坪五十円としても十万坪あれば五百万円である。次に三万円以上、七万坪以下の土地を所有する都下の大地主を挙げてみよう。
▲六万五千余坪 阿部正植(旧大名)
▲六万三全余坪 渡辺治右衛門(商人)
▲五万七千余坪 安田善次郎(銀行家)
▲五万余坪 酒井忠道(旧大名)
▲四万九千余坪 徳川繁承(旧大名)
▲四万六千余坪 鹿島チヨ(質商)
▲四万三千余坪 土井利興(旧大名)
▲四万千余坪 阿部正功(旧大名)
▲三万八千余坪 細川護成(旧大名)
▲三万四千余坪 東京市(団体)
▲三万二千余坪 三野村倉二(商人)
▲三万千余坪 松方侯爵家
▲三万千余坪 桝本喜兵衛(酒商)
▲三万千余坪 酒井忠興(旧大名)
▲三万余坪 東京電気局(団体)
▲三万余坪 平沼八太郎(実業家)
誰か旧大名の勢力が減滅したという。政治上には或いは殿様の金箔は剥げたかも知れぬが、其の大部分地主としては、依然として都下枢要の地を占めている。尚、右の他に二万坪以上の地所所有者は二十四余名、一万五千坪いじょうが十七名、一万坪以上が百八名。而して東京市全体の総坪数は何程かと言えば、府下の郡部を除いて、12,079,826坪である。これに近頃急速に発展をした渋谷町、大井町、代々木、柏木等を入れたならば実に大した面積である。