忍者ブログ

ノスタルジック解説ブログ

女を圖ぐる明治末期の六区 6.女役者と浅草芝居【昭和5年「浅草女裏譚」より】

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

女を圖ぐる明治末期の六区 6.女役者と浅草芝居【昭和5年「浅草女裏譚」より】

この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


女を圖ぐる明治末期の六区

六、女役者と浅草芝居


 それから間もなく、神田の三崎座で、女芝居が、馬鹿化した人気を博しつつある頃、たしか明治四十三年か、四年頃のことでした。同座の合部屋級の若八と、千八との二人が、辛いなって江川の玉乗りで、夜興行を始めたことがあります。最も昼間は、爾来の玉乗りをやり、夜分になると、女芝居に早替わりをするのでした。しかし、それは浪花踊りの如き人気がなく、従って長持ちもしませんでしたが、たしかに芝居は悪くなく、相当よくやりました。では何故に、この芝居が人気がなく、長持ちしなかったかと言いますように、それは凡そ次の如き理由に基づくものであります。

(一)浅草の大衆が女芝居に飽きていたこと。
 当時六区の実情は、活動写真の如き目先の変わった見世物に心が移り、爾来の女芝居の如きに、多少飽きが来て居たことが、先ず何よりも大きな原因の一つでした。

(二)芸一方で売ろうとしたこと。
 従来浅草が、見世物本位で、芸そのものの真価よりも、却って手軽な、華やかな、そして淫猥な、単純な、享楽を求める場所いなって居ましたので、芸一方で売り出すと言うのは、最も困難なことであります。況や、曲芸で売り出した江川が、それを実行しようと言うのは。、策を得たものでありませんでした。そう言う訳で、若八一座は見事失敗したのです。

(三)昼夜のけんこうがとれなかったこと。
 昼間最も単純な、そして最も淫猥な軽い見世物式の玉乗りや、曲芸をやって、而も、それが暗闇の中に、暗い歌舞伎に替わったことも、失敗の一原因でした。

(四)芝居ゴロを弄らくしなかったこと。
 浅草で売り出すには、或る程度まで、こうした■れた■を実地応用しなければなりません。つまり非芸術的な、都踊りの女芝居や、浪花踊りの女芝居が、時ならぬ人気を博したのも、蓋しこれが為めであると言っても過言ではありません。この意味に於いても、若八等の方針は誤りであったと言わねばなりません。

 いずれにしますも明治末期に於ける六区は、浅草改造の第二期とも言うべき時でありましたから、一方に於いて、ひどく活動が普及され、他方に於いて爾来の創造式の見世物が衰え、漸次旧態を脱しつつあったのです。殊にこのころから角行灯を掲げた寄席が、めきめきと繁盛し、怪談式の講談や、小話や、落語などと共に、浪花節が、ひどく流行し、浅草興行街を驚嘆せしめつつありました。


PR

コメント

プロフィール

HN:
ノスタルジック時間旅行
性別:
非公開

P R