この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
女を圖ぐる明治末期の六区
七、喜劇流行の兆
丁度其の頃から、そろそろ曾我廼家なるものが、公園の一廓に頭を擡げ、それが徐々に普及され、発展して行きました。殊に浅草名物男とまで言われた五九朗君は、先ず最初、金龍館の真後ろにあった極くちっぽけな小舎で、東倶楽部と云うのへ出ていた。が、間もなく帝国館に変わり、それも日ならずして、金龍館に移った。そして、現在三友館に■■っている五一郎君(当時、〆太と言っていた)と共に華々しく打って出たのが、そもそも浅草をして、喜劇萬能に導いた動機であった。
今当時の組織を見ますに、五九朗君は外務として、大ぼらを吹き、あらん限りの宣伝を為し、〆太君は内務として、最も堅実なる方法で座員を統率し、水も漏らさぬ円満さで発展しつつあったので、瞬く間に人気は沸騰し、予想外の成績をあげるに至ったのです。
處が反逆気分の強い五九朗君は、何時の間にか同座から失敬し、脱退して終わったので、堅実そのもののような五一君は、悲憤に落涙しながら其の不心得を説いたが、遂に及ばずして解散するの止むなきに至ったのです。
それから間もなく〆太君は、曽我廼家五一郎と改称し、世界館に立て籠ったが、其の始めの奮闘は、全く敬服に値すべきものがあります。今日君が数十万の蓄積をなし、而も、十年一日の如き人気を獲得し、貧乏ゆるぎもしないのは、過去に於ける苦しき経験と、奮闘の賜物でなくて何でありましょう。
五九朗君が観音劇場で、破天荒な人気を集めたのは、大正は既に半ばを過ぎておりました。其の当時、五九朗君の得意さは、思い半ばをい過ぎるものがありました。
これ等のことに就いて、ほそぼそ書くと、可なり面白いものが出来ますが、生憎、本書の目的に縁遠いことでありますから、何かの機会に譲ることにします。
兎に角、この二人は浅草に於ける喜劇界の先祖であり、また功労者であることは言うまでもない。