この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
女を圖ぐる明治末期の六区
三、女役者の簡単なお座敷
今日でこそ六区も可なり秩序立ち、狭苦しい横町もなく、ごみごみした露地もとり除けられ、さっぱりとじた観葉の街になりましたが、明治時代の六区に至っては、全く言語に絶えない程、ごみごみと湿気臭い町でした。しかし、それだけに裏面を飾る暗黒面がはっきりと、そして、それ等の魔女が出没するに、ふさわしく、且つ簡易でありました。
殊に明治の末、総ての興行物がかぶった十時過ぎの六区は、著しく淫猥で、食しょう新道や、稲荷横町や、常盤座の横町などのちっぽけな小料理店などは、殊に浅ましくも亦、憐れな程、首筋に白粉の残った踊り子や白粉焼けした女芸者や、乃至は、玉乗りで鍛えた所謂、肉体美の娘や、しれから綱渡りの細っそりした美人や、それからそれへと数えると、最限がないが、兎に角、そうした女芸人の群れが、どこの小料理屋にも、大抵一人以上居ないことはありませんでした。しかも、それが単独の行動でなく、どこかしらにやけた男達が、必ずつき纏っているのです。否、そうした男に呼ばれて来ているのです。
これは少し大げさな言い方であったかも知れませんが、兎に角、当時のお座敷は、一般に安直で簡便が尊ばれ、一流の女役者でも、簡単に小料理屋へ出張し、安料理をうんとこさと、パクツキながら、何かの取引を締結すると言う安直さでした。ですからそれ以下の踊り子達は、おして知るべしで、そばやの二階で交渉談判が整ったなど、全く時ならぬテンポの時代でありました。
處が何時の時の世でも、必ず損な役回りに廻る連中があるものです。例えば、観覧車の中で痴呆狂いをしているのを如何にも、珍しそうに見とれている連中があるかと思うと、安食堂で、女役者や、踊り子などが、たらふく飲み且つ、たらふく食って色男と、ちんちき騒ぎをするのが見たさに天下の通実を事程にも考えず、飲みたくもない酒を飲みに這入る連中も案外少なくなかったと言うから、其の一面は決してスピードの時代ではなかったらしい。