この文章は、大正8年に刊行された「東京史蹟案内」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
外桜田門
旧江戸城は内郭及び外郭に諸門を開き、和田倉より外桜田及び半蔵より竹橋・雉子橋・一ツ橋を経て虎ノ門赤坂を廻り、浅草橋に至る諸門、井に芝口御門を旧時外曲輪御門と称えて二十六門あり。
正門に冠木門を開き、内に短形の空き地なる桝形を置き、冠木門の左右より石の高塀を以ってめぐらし、冠木門より入り屈折して大門を開き上に渡櫓を架す。冠木門の左右石塀上に女■、高塀の上に瓦塀を置き、女■及び櫓門の内側に各医師団を設くる江戸城見附の一般を形式とし、冠木門は其の形式高麗なるを普通とす。外桜田門及び日比谷門は其の一例にして、前者は略ぼ旧形のままを存すれども、日比谷門は全くその俤を失い、僅かに石塁の一部を日比谷公園・日比谷門内に存するのみ。
(外桜田見附平面図)
外桜田門は徳川氏入城の時、木戸門ありて小田原御門(寛永図に小田原口)とあり、文禄中西丸創建の時、外桜田門と称し、寛永十三年に至り、其の形式整いしが如し。桝形は南北十五間半、西二十一間半、南に冠木門を開き、東に梁間四間桁行十九間の塗籠造渡櫓を架し、下に大門あり、外桜田門と称す。旧時は橋の東詰井に桝形内に張番所あり。櫓門の内に大番所を建つ。写真は冠木門と塗籠造渡櫓の一部をあらわせり。
(外桜田門)