この文章は、大正8年に刊行された「東京の解剖」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
四 上京者と職業の選択
職業の選定に就いて
地方の青年は東京に出さえすれば、どんなに好い職業にでも有りつかれるように考えて唯だ漫然と上京するが、之が間違いの抑々である。久しく東京に住み慣れた者でさえ、一度職業を失ったが最後、容易に再び得難いものである。況や都会の事情も知らざるポット出の田舎者が、確乎たる方針もなく、郷里を飛び出して来るようでは、それこそ魔道に陥るばかりである。そこで上京すると決心したならば、先ず如何なる職業を選ぶべきかという事を考えねばならぬ。
人にはおのおの天分と性質とがある。商人に適する者もあれば、職人の適する者もある。又学者、政治家、文学等に成功すべき者もある。要は己が性質と天分とを考えて、如何なる職業が最も適するかという問題に注意せねばならぬ。
世間には望外の望みを抱いている者が少なくない。実力も無い癖に気位ばかり高くて、体力の労働を厭い、虻蜂取らずに終わる人が多い。之は封建時代からの習慣で、農工商を卑しめ、座食者を高しとした余弊であるが、職業に貴賤の区別をするのは甚だ間違った考えである。尤も近来は余程実利的になって来たが、やはり座食的労働を貴しとして、体力労働を卑しめる風趣が残っている。
職業に貴賤なし
同じ精神労働の方面でも、以前は政治、文学というが如き形而上の学問が貴ばれて、農工商に関する形而下の学問は、青年の間に喜ばれなかった。が、近来はこの傾向が次第に現場して、諸科学が重んぜられるようになったのは慶すべき現象と言わねばならぬ。で、学問が形而下学、即ち政治、文学、宗教の如き学問と、理化学、動植学の如き学問との間に何ら軽重なきと等しく、労働に於いても精神労働と肉体労働との間に何等の軽重はない。一視平等何れも神聖なる職業に従事しちるものとして敬意を表すべきである。何も精神的座食者流を貴しとする道理はなく、職業の上から言えば国務大臣の労役も、百姓の労役も何等の差別はない。いずれも社会の為に貢献せんとする貴き労役である。
故に政治家であろうと、大工左官であろうと、決して此の間に貴賤はない。唯だその職業に忠実にて熱心であれば、即ち貴ぶべき人として尊敬すべきである。尤も職業には色々の特質があって、それに成功すべき準備を要するものであるから、自分の嗜好に適するからと言って、何らの準備もなく、直ちにその職業を望むのは甚だ早計の次第である。
職業の準備と資格
政治家や軍人の文学者は一見華々しい職業である。けれども政治家となるには、それだけの素養が無くてはならぬ。軍人たらんにも相当の資格が無くてはならぬ。其の他学者、法律家、何になるにも一定の資格と準備とを要せざるはない。自分で政治家になりたい、軍人になりたいと望んでも、成れるだけの準備がなければ結局空望である。それよりも寧ろ、他の準備と資格とを要せざる職業を選んだ方が早道である。殊に今日の社会では、何も限らず、すべて分業的になっているから、一方に傑出せんとするには、相当の時間と金力とが無くては成功しない。よしや学問の研鑽に適当した人物であるにせよ、其の人にして何等の学資なき境遇であったならば、せっかくの志も果たすことが出来ない。それよりも時間と金力とを要せざる他の職業を選んだ方が得策である。
職業の適否は一生の幸不幸に関係するもので、世間には相当の職業を有しながら、それに満足せずして、不平不満の絶えざる人が少なくない。之は最初に職業の選択を誤った結果であるが、その原因は自己の性質に適不適を考えなかったのと、一つは旧時代の職業観に囚われて、むやみに上品らしく見える座食的職業に就いたからである。殊に法律や文学などに志した青年に、最も右の如き実例が多いようである。
そこで職業の種類は千差万別、殆ど数え切れぬほどある。上は大臣高官より、下は車夫馬丁に至るまで、身心を労して之に対する報酬を得ている者は悉く職業である。尚これを大別すれば精神的職業、体力的職業、心身両役的職業、こう三つに分類することが出来る。精神的職業とは、体力を労さずして専ら能力を労する官吏、牧師、政治家、文士、美術家、宗教家の如き階級をいい、体力的職業とは職工、農夫、大工、車夫其の他一般身体を労する者を指し、心身両役的職業とは身体と能力と二つながら労役せしむる商人の如き階級をいうのである。
月給生活と労働生活
前にも述べた如く、世間には職業に貴賤の別を置き、精神労働者と体力労働者との間に一大区画を設け、前者を貴しとして後者を卑しむる風がある。けれどもカーライルの昌破せる如く、労働はあくまでも神聖でなければならぬ。職業という上より言えば、官吏も、学者も、政治家も、商人も、大工も、左官も、百姓も皆な同じく国家の一員として、社会に貢献すべきものである。その生活状態から言うと、能力労働者よりも、体力労働者の方が寧ろ幸福のように思われる。
試みに銀行会社の安月給取や下級官吏の収入と、大工左官職工車夫の如き体力労働者の収入とを比較して見ると、前者よりも後者の生活が遥かに安易のようである。勿論、銀行会社其の他の勤め人でも、ずっと上級になれば格別だが、然し今日新たに職業を求めんとする青年が、一躍して銀行会社の重役や、高級官吏に成れるものでない。帝国大学を卒業しても、文学士などは僅かに二十五件の売れ口すらないとの事である。況や無資格の青年や、安月給取に於いてはその生活の困難なる、実に予想外のものである。
職人でも大工や左官の賃金は、東京では一日八十銭ないし一円である。石工の如きは一円以上一円三十銭位取る。最も安い紡績工や鉄工などでも平均七十銭の収入は或る。砲兵工廠などは五~六年も勤続して、技術が熟達して来ると、二円ないし三円の日給を取る職工が沢山ある。これに比較して腰弁其の他の精神労働者は如何かといえば、多くは二十円以下で、十五~十六円の所が最も多い。
給料が月給で、且つ昇給の方法が備わっているというので、体力労働者よりも精神労働者を優れりとする者がある。なるほど月給取は一日や二日休んでも、給料を引かれるような事がないから、日給取よりも其の点だけは安心であろう。けれども昇給の制度は大抵の工場に設けられてあるから、単にその一事を以って精神労働者を優れりとする事は出来ない。それに体力労働者は、精神労働者に比較すると、需要の道が多くて、働こうかと思えば明日からでも賃金が得られる。しかるその賃金は物価の騰貴に比例して幾分かづつ上げられる。精神労働者には絶対にそれが無いとは限らぬが、多くの場合給料を増されることは稀である。
月給取と職人の比較
尚、生活其の他の方面より、月給取と職人とを比較すると、幾多の差別を発見せられる。その要点を挙げてみよう。
(1)精神労働者は対面を飾る必要がある。即ち、服装や交際費等に余分の費用を要する場合が多い。
(2)月給取は同じく社員と称する中にも人によって給料の差額ある上に、精神上の苦痛は労働者の比ではない。
(3)月給取は職人に比して、同僚間に情幣多く、単に技術又は勤務の如何によって自報酬を得べからざる不公平の事がある。
(4)月給取は職人に比して健康上宜しくない。最も紡績工場には肺病者多く、活版工場に鉛毒多きが如き類があるけれど、総じて精神労働者は運動不足なるを以て不健康に陥り易きは争われぬ事実である。
こうして比較して見ると、体力労働者は製紙労働者よりも幾多の特徴がある。勿論精神労働者の前途には、発展の余地は多いようであるが、然し中東以下の階級に就いて見ると、体力労働者は、精神労働者よりも余程生活が楽である。殊に小学校より中学を卒え、法律学校などを出た青年が、僅か二十円内外の銀行会社員となり、又小官吏などに甘んじているのは、実に笑止の至りと言わねばならぬ。故に前途有為の青年は、こんな生意気なき腰弁生活などを志望せず、赤手空拳、腕一本脛一本を資本として、奮闘生活をする決心が無くてはならぬ。