大正15年に文芸社より発刊された「全国名所めぐり」より、「京都」というセンテンスより。尚、旧仮名遣いと旧字体は可能な限り現代表記とした。
<京都>
京都は山紫水明の地、東山の艶、西山の翠、鴨川の清、大井川の奇、一容一態其の趣をかえて、人を厭かせず。淹留旬日尚恋々として帰るを忘れしめる。まして桓武帝が此処を大宮処と定め給いてから、七十二朝一千百余年の星霜に織りなされたる、美術工芸の花の匂いは、また世に比すべきものがない。なべて世の美というジは、唯此の里にのみ占められて、山水伸び、楼台の美、風俗の美なると共に、日とも亦美の美を抜き、艶の艶を抽きて、鴨東の春色管ならないものがある。翳す扇に翻る袂の風に吹かれては人の心も和らぐであろう。
御所は市の中央北部にある。明治二年車駕東遷、東京に宮城を定め給いてから、別宮となった。けれども尚、大号を存し、皇宮森厳、寝陵清穆、其観を改めない。即位の大礼及び大嘗祭の大式は永世ここに行わせらるるのである。蓋し、桓武帝の遺範を聿修せられたもの洪謨無窮と謂うべきである。二条城は今は離宮である。家康の関ヶ原戦どうの勢いに乗じて、造営したところ、慶應三年十月、十五代将軍慶喜がここに在って、国家の形成を見る所があり、遂に大政を返上する議を決した。明治維新の偉業に一道の光明を興えたのは、実に此城である。規模は宏大ではないが、其建築は徳川時代の粋を凝らしたものである。
「布団着て寝たれる姿や東山」この如意嶽から南稲荷山まで、鴨東三十六峯を総じて東山という。形容温籍で絶えて峭峻の状をなし、山の半腹から麓にかけて、世に聞こえた勝地が相連なり、巡遊数日尚日の足らないことを覚える。
四条大橋の東袂から南に下って、伏見街道を下ると建仁寺、寺の東西の一帯の地は平家重代の館址を置いたのは六波羅である。方広寺は有名な大仏殿、秀吉の創建するところで、洪鐘がある。銘中の国家安康の四字、老爺に大阪役を起こすのジ柄を設けさせた。これが遂に豊臣氏の滅亡となった。
寺の南に豊国神社がある。寛永年間、豊国廟が崩壊せられてから、風雨三百年、今や枯骨再び花が咲いて、偉大な鋭城を見るに至った。社前文禄征韓の役を偲ぶべき耳塚がある。五輪大石の塔である。京都帝室博物館はこれと一路を隔てている。平安時代の美術工芸を窺うべく、これから一路坦として東に向かい、数百級の石階を登ると、阿弥陀ヶ峯があって、即ち蓋世の英傑の骨を埋めしところ、三十三間堂は後白河天皇の勅願、堂内仏像が多く、伏見街道を進んで左折すると泉入寺がある。寺背の丘陵に孝明天皇、及び、英照皇太后の御陵がある。街道を尚南に進むと東福寺に至る。後庭一渓をなし、これに架けた橋を通天橋という。上に陋屋を蓋う、古来紅葉の名所として宣伝する処である。
更に踵を旋らして、大仏門前から西大谷に至ると、本派本願寺の大谷御廟がある。これから路は、匂配緩やかなる長坂を登る。登りつくすと清水寺があり。清水寺は洛中眺望第一の称がある。堂宇の奇巧もまた見るべきものである。楼門は文明年中の遺構といい、本道は寛永十年幕府の造営に係り、桁行九間梁間七間屋根四注す。東西裳階があり、前面に両翼がある。廂及び舞台之に附し、懸崖に架して南へ向かう。南郷浅澗の一ゐの水がある。これが世に名高い音羽の瀧である。
清水坂の中ほどを折れると八坂の塔、塔の近くに高台寺がある。秀吉夫人浅野氏の本願である。豊公の廟内に秀吉夫妻の像を置く。庭園は菊澗の水を引き、樹石の安排は極めて巧である。小堀遠州の造る所であると云う、千利休の意匠による時雨亭唐傘亭がある。萩また京名所の一に居る。八坂神社は洛東の名祠、スサノオノミコトを祀る。其の祭礼はいわゆる祇園会にして、古来京都の盛観と称せられ、其の華麗蓋海内神祇園礼の冠免とする。社から東方、山による地は円山公園、洛陽遊筵第一の地である。一幹の枝垂桜がある。古樹絢爛の趣をつくす。花候夜に入れば、篝火を焚き、幽艶ますます加わる。これが世に言う祇園の夜桜である。真葛ヶ原から北に向かえば、松翠櫻白と点綴する辺に、一大寺門を見る。これ華頂山知恩院で寺は浄土宗の総本山、法然上人の開基、東山第一の巨刹である。衆会堂は俗に言う千畳敷、其の縁はいわゆる鴬張り、一歩毎に音がある。宛として流鶯の囀るが如くである。山上に鐘楼がある。巨鐘を掲げ、四月の御忌の衣裳くらべと云う。知恩院から尚北に向かうと、粟田口の青蓮院がある。林泉の美を以って知られている。粟田神社に詣でて東へ行くと蹴上琵琶湖からひいた疎水はここに分岐して、支線は市中の給水源となり、幹線は京都、大津間の運渠の用に供せられ、荷船客船を備え、機力によりてインクラインを上下し、琵琶湖と鴨川との間を往来する。南禅寺は臨済宗の大本山で、松並木の中に山門の聳ゆるが見える。山門は五鳳楼といって、毅然たる建築である。寺の北に永観堂禅林寺がある。弁天池畔櫻楓駢植して、秋時錦繍の美、通天橋と並称せられている。
市内外の地は、ほとんど神社仏閣を以って埋めている。帝都が東にうつって、痛く旧時の繁華を殺がないというのも、豊、賽者四方から至る為であろう。平安神宮は実にこの地第一の尊崇の的で、桓武帝を祀っている。其の祭礼の時の行列は有名である。社然に模造の大極殿がある。蝉ノ小川の清き辺り、糺ノ森の翠緑の中に、下鴨神社鎮まりおわす。境内は静浄で趣致に富む。上賀茂神社は北に距るること二十丁、両社を合わせて加茂大臣と称う。後に御生の翠巒を負い、前に奈良小川の清渓を帯び、其の境遠く俗気を離れている。両社の祭典は、世にいわゆる葵祭で古式を用い、其の起源古く欽明の御宇に濫觴するという。
建勲神社は信長を祀る。祠後の丘上展望は佳である。平野神社は桓武外威の祖神で、五殿相が並んでいる。拝殿は本社と共に、故らに接材を用い、構造宜しきを得ている。北野天神は道真の霊を祀る。本殿は八棟、檜皮葺の華麗な詞堂である。境内に梅松参差し、特に紙屋川の高堤には梅樹多く、神霊の遺愛を偲ばせる。其の他、松尾神社、護王神社、梨木神社等、神威皆仰ぐべきものである。
寺は西本願寺、現今の御堂は宝暦十年の創造に係り、頗る宏壮である。唐門は東山豊国廟の旧構を移したるもので、彫刻の精妙なのを以って著はる。摘翠園の飛雲閣は聚楽第の遺物として亭樹水石の美、夙に好事者の推すところである。東本願寺は近時の建築、堂宇の華麗壮偉海内無双と称えられている。境内に噴水の壮観あり。共に世に聞こえている。堺に近く枳殻邸がある。殿舎林泉の美を以って鳴る。東寺は経像図書の宝蔵海内に比なく、五重の塔は高さ三十五間、本邦第一の高塔として知られている。黒谷の金戒光明寺は浄土宗の巨刹、境内浄く苔滑らかに、堂前に熊谷直実の鎧懸松がある。又、山崎闇齋の墓が境内に在る。銀閣寺は義政閑棲の地で林泉の美茶室の数奇を以って世に聞こえている。金閣寺は義光の燕居の地で三層の金閣、尚、古の光を髣髴すべく、林泉の美依然として昔日の儘である。閣上から望むと、四囲の林樹はオウ鬱として、昌々たる大池に其の影を映じ、島しょ岩石の布置、仮山林泉の趣致、妙を極め功をつくして、一として園芸家の規でないものはなく、虎渓橋の彼方の一境は更に新たに開け、四辺の風光閑雅清麗、最も幽邃を極めている。金閣の勝は実に林泉の美にあるのである。
衣笠山の等持院が臨在の巨刹であり、仁和寺は真言の巨刹で、御室の名がある。寺の付近には古くから櫻の名所として知られ、御室の花は世情と類を異にすと称せられ、櫻樹其の身幹低く、枝葉満身の横生するを以って頗る風致がある。花を著くること亦多しという。妙心寺は殿堂の宏麗洛西第一とする。境内の大法院に佐久間象山の墓がある。太秦の広隆寺は聖徳太子の開基にかかるもので、一千三百年の名藍、京都第一の古跡である。其の桂宮院は八角の一宇で八角堂の名がある。推古朝の建築そのままで、斯道の人に重んぜられている。太子殿前の石灯籠、亦太だ古雅、世に謂う太秦形なるものはこれである。古来観月の名所である廣澤の池は、この寺から近い。大覚寺は、歴代法親王入嗣の貴寺で、境内は静浄にして殿堂は高潔である。清涼寺は大覚寺の南にあり。安置の釈迦像は三国伝来と称え、俗に嵯峨釈迦堂という。天竜寺附近は古の嵯峨野で、雲の上人の月にあくがれ、蟲に心を澄ました処で、かの小督の局の幽栖の跡も亦この地にある。
京に遊んで花を賞するもので、嵐山に行かぬものはない。嵐山は水声淙々として心耳を清め、忽ち一場の明媚な山水を展べ来る。長橋があってこの勝境に導く。これが所謂、渡月橋である。千鳥ヶ淵は橋の上流三町余、俗説に横笛の投水した処という。「花の山 二町のぼれば 大悲閣」、大井川疏サクの功をした角倉了以の像がこの閣内にある。山の広茫二十町、斜めに西北に向かって深淵となる。所謂嵐峡はこれである。凡そこの山隅水滸櫻樹多く、春蘭なる頃、欄間mmとして峯はまさに燃えんとする。其の流れに沈む所は、花気と水気と相たいし、夜もまた光がある。舟を浮べて徂徠すれば花を出でて、又花に入り、花が幾度も陰晴する川の上流は即ち保津の急瀬で、乱石奔湍の奇がある。峡中に石があり水之と闘って下る。舟子巧みに一竿を操って船を行る。舟の下るや箭よりも早く、両岸の風光須曳にして百変する。この間流程四里、一時間ですでに嵐山の客となる。この遊びは初夏新緑の候を以って第一の好時節とする。両岸の躑躅爛紅を漲らして美観は無限である。
「川風や 薄衣きたる 夕涼」鴨川の水シクワンとして流れ、涼風一味すでに夏なく、四条橋は東祇園の花街に接し、西に先斗の狭斜がある。白雨一過煙塵を洗って、晩涼人に可なる時、東山の峯巒漸く紫に、鴨川の水は漸く明るく水楼遠近に湘簾を捲き、涼台洲渚の上に設けられ、燈を懸けタンを敷いて客を迎える。玲瓏の月は空に照り、清浅の水は下に流れ、興趣更に夜の明るくを知らぬとか。
比叡、愛宕、鞍馬は京の三山である。巍然として市の東北に聳えるのは比叡山。山勢峭峻絶頂の大嶽と云い、東傍に延暦寺根本中堂がある。大嶽の西北、西塔峯勢北走して、大原魚山の嶺となり、横川嶺大嶽と一縦谷を隔てて、東北に相互する、四明峯無動寺は大嶽の南にあって、琵琶湖を眼下に望み、沿岸の光景を恣にする。京都から淀川の末もまた、嘱目の中に入る。
四嶺三塔は共に幽邃の勝を占め、展望の遠をとっている。近時内外人の、暑さを此処に過ごすものが益々多くなった。近江の坂本から中堂まで二十八町、これを東坂といい、山城の修学院から四十町、これを西坂という。愛宕山は嵯峨村の西北、一の鳥居から登路五十町、杉檜道をおおう、土器投の戯がある。執って空中になげうつと、恰も飛鳥の如く軽揚し、久しうして始めて深谷に墜ちる。頂上に愛宕神社がある。東嶺大鷲峰の月輪寺、登臨最も開豁の地で謂ゆる十六州の山河目前に現れるという。
鞍馬は市の北方の名嶽で三條大橋から三里、山の半腹に鞍馬寺がある。其の西北に貴船山神社がある。山の西北十町、僧正谷に魔王堂がある。俗説に鞍馬天狗の栖居であると、巌石樹林の態が尋常でなく、岩面刀痕を残すもの、これが遮那王牛若丸修行の跡と伝える。
嵯峨野、宇多野以北、愛宕山東麓の地を三尾という。清瀧の清流屈曲する所に、高尾、栂尾、槇尾の三尾があり、相並んで其の西海に臨み、秋日黄葉の幽勝世に聞こえている。高尾には神護寺がある。境内に和気清麿を祀って護法神としたが、近年官幣社に列し、都下に移祭せられてから、旧址は木柵を以って之を護ってある。栂尾には高山寺があり、槇尾には西明寺がある、皆幽邃の境を占む。秋霜漸く下れば満山、悉く紅葉し、鳥声人語、亦赤らむという。
伏見は山谷を負い水沢に臨んで、形勝の宜を得ている。豊臣秀吉が桃山に築城して此処に居り、海内に号令してから多いに著われた。城址は町の東方にあり、附近には梅樹が多い。平等院は宇治駅から五町、駅を下りて市塵の間を過ぎると宇治橋に至る。水色縹碧流れること甚だ早し。橋の西は橘の小島、佐々木梶原の二勇士が渡川の先を争いし昔が偲ばれる。橋から右に折れて行くことニ町で平等院に至る。仏殿を鳳凰堂といい、本堂両翼及び後尾から成り、尾上に銅凰がある。結構荘厳美麗絶倫である。観音堂の堂傍を扇芝という。これ源三位頼政の屠腹した所である。風雨七百年、短草昔ながらに青い。
「勢田の手を うちもらされの 蛍かな」宇治の流蛍は、古来既に幾田詩人の品題に入れてある。宇治は茶所、茶は緑所、薫風五月、村娘幾隊茶圃に下りて、芳芽を摘む山は、一様の茜裾、一様の笠、一唱一歌相答えて日の斜めなるを知らない。「山門を 出れば日本の 茶つみうた」。万福寺は明僧隠元禅師の創建にかかる所で黄葉派の本山葉、其の建築は概ね支那の国風に疑したるを以って、宗派と共に特異の趣味が多い。