この文章は、昭和7年に発行された「広島県」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
一、広島市
人口二十七万四選人を有する中国第一の都会にして、太田川口の沖積地に建てり。河口の本支流七派北より市中を貫き南広島湾に入る。明治二十二年宇品築港なり、大小の船舶出入り頻繁たり、同年市制を施行す。第五師団、広島控訴院、広島文理科大学、広島高等師範学校、広島高等工業学校、広島高等学校、広島女子専門学校、その他官公署多く商工業賑盛なり。
市の草創は天正十七年、毛利輝元城池を築き、治を高田郡吉田より此所に移し、初めて広島と名づく。其の城己斐の海上に建てるを以て一に鯉城という。己斐、鯉国音和通ずるを以てなり。慶長五年毛利氏防長に転じ、福島正紀之に代わりて城主となる。元和五年福島氏封を除かれ、浅野長晟城主となり子孫伝承して明治維新に及ぶ。廃藩後其の城内は陸軍用地となり、旧態を失い僅かに天守閣(五層にして東西十二間、南北九間、高さ十七間六尺)及び牙城塹壕の一部を存す。
第五師団司令部は牙城内に在り。当って明治二十七~八年戦役、明治天皇大輦を進め大骨異を此処に置かせ給い、牙城の南方練兵場の一部に仮議事堂を建て、臨時帝国議会を招集せられたり。後三十二年大正天皇行幸あらせられ、大正十一年には皇太后陛下行啓あらせられ、又近く大正十五年五月今上陛下(皇太子殿下の時)行啓あらせられたり、昭和四年四月一日隣地七町村を合併し、大広島の実現を見たり。
旧大本営
明治二十七~八年戦役、明治天皇大輦を進め旧本丸址の第五師団司令部を以て大本営に充てさせられ、同年九月より翌年四月まで鳳輦を留め給う。行宮巌然当時の様を在す。大正十五年十月史蹟として指定せらる。
旧御便殿、比治山公園
比治山は市の東方丘陵にして、高さ僅かに十七間、其の形臥虎に似たるを以て臥虎山とも云う。山上より全市を俯瞰すべし。
旧御便殿は山の北端にあり。明治二十七~八年戦役旧城址(西練兵場内)に臨時帝国議会を開かれたる際の御便殿に套堂を設けたるものにして、明治四十二年記念殿として建立せしものなり。御真影を奉奠し当時の御物たる敷物、椅子、卓、被等を藏せり。
泉邸 浅野侯爵家別墅 上幟町
元和六年、浅野長晟の設くる所にして、支那西湖の風景を模す故に之を縮景園と名づく。俗に御泉水と称す。明治二十七~八年背ね紀、明治天皇広島御駐輦の際行幸あり、又此時昭憲皇太后、大正天皇(東宮の時)行啓あらせられ、近くは大正十一年三月、皇太后陛下行啓あらせられたり。庭園蒼古幽邃にして自然の如く、寔に好個の仮山水なり。
饒津神社 大須賀町
県社にして浅野侯爵家祖先長政を祀り、室末津子を配す。大正十四年更に長政の子行長、長晟を合祀せり。天保六年十台の孫■■の建立に係る。神社所有地附近一帯の地域を饒津公園と称す。樹木欝蒼幽静にして市人の散策する者四時多し。
国泰寺 小町
鳳来山洞雲禅院と号す。豊臣秀吉の開基、僧恵瓊の建立にして安国寺と呼び、臨済宗の巨刹たりしが、二世琳英に至り曹洞宗に改め国泰寺とす。秀吉の廟、恵瓊の供養塔及び大石良雄の室石束氏子、大三郎の墓あり。堂宇数次祝融の災に罹り今の堂宇は明治九年の再建に係る。
宇品港、御幸橋
明治十三年千田貞暁本県令となるや築港の必要を看取し、明治十七年創工せしが、数次風浪其の他故障を受け、資金の欠乏を告ぐる事数回、自ら進んで家産を■ち工費に補充する処あると共に有志の熱心なる補賛を得、苦心経営二十二年十一月竣工す。経費実に三十余万円、新開地を得る六十二万八千余坪なり。十八年明治天皇巡行の際、此の港を経て還幸し給う。因に御通輦の路を御幸通りと名付け、松樹を植えて記念となし、橋を御幸橋と称せり。港頭に陸軍運輸部等あり。明治二十七~八年戦役、三十三年北清事変、三十七~八年戦役軍隊出入りせり。港内広く水尋深く、我国屈指の良港にして其の名内外に■る、今や輸出港として神戸税関出張所あり、湾頭に向宇品あり処女林繁茂して、緑翠波に映じ風致極めて佳なり。