この文章は、大正15年に刊行された「趣味旅行」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
苗圃と農場見物
昼食後、課長さんが島庁の苗圃を案内しようと迎えに来て下さった。草や木を相手に学界に名を轟かすN先生や、たとえ孵らぬ迄も植物学者の卵を以て自らに任ずる私達には今朝上陸したばかりの疲労も、珍奇な植物を見るという喜びの前には何の障りともならぬが、剣によって天下を睥睨するT中佐や、神の秘密を探って大いに儲けようとする大学院理学専攻のS君を、この熱帯の真夏に、而も真昼の真ん中に苗圃まで引き出す為には、何か偉大なる吸引力の存在が必要なこと申す迄もない。果然苗圃にはバナナや西瓜の熟していることは先刻課長さんから聞いて知っているとのこと。
苗圃は宿から三~四町の所にある。小さな石の門を入ると水槽があって睡蓮が目覚める許り鮮やかに咲いている。紅の花、黄なる花、レモングラスの叢。カジュワリナのそよぎ、木生羊歯の谷、さてはマンゴーの林、バナナの園、パパヤの木立、目に入るもの凡て珍奇である。午後の日射はこの上もなく明るい。時々果てしない海面を渡って涼しい風が音づれる。光沢の強い木々の葉がギラギラと光って、水晶の水に遡る白金の魚の閃きのようである。光の強い所々の陰は必ず暗い。暗い木陰に五尺の鰐が二匹寝そべっている。キョッとすると、島司さんは平気な顔で、「数年前に南洋から移したものである。」という。試験場の一室でバナナと西瓜の御馳走を受ける。中佐殿や物理学者を引き出すだけあって、その美味その香はとても内地のものの遠く及ぶ所でない。
夕食後農場を見に行く。曲折のある海岸に沿うて五~六町、蒲葵の林を抜け、多少の丘陵を越えること六~七町、山の稍々開けた所に農場がある。折柄暮色蒼然と迫って蟋蟀の声しきり、芝生に仰臥して見上げると満点の星はこぼれる許り。思いなしか北極星が心ばかり下がったよう。峽を伝って拭き来る風に椰子の葉の静けき囁き。身の熱帯にあることを忘れて、高原の歌を口ずさめば軽井沢の夏が目に浮かぶ。
農園を出て帰化人村を訪れる。てりはぼくの茂る海岸に原始的な家を造って静かな生活を送っている。丁度出たばかりの月の光に、磯にならぶカヌーの半面が光って云い知れぬ詩趣が溢れる。すぐ宿に帰るのが惜しいのでカヌーを借りて三人で漕ぎ出す。櫂を入れる度に夜光虫の光は玉と砕けて眩いばかり。月は空に澄む、冷風袂を払って境は益々静かである。