この文章は、大正15年に刊行された「趣味旅行」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
旭山の頂に立って
八時ごろ課長さんが二人の人夫をつれて迎えに来られる。今日は旭山から武田牧場の方へ採集へ出かけるのだ。朝からかんかん照り出した。さなきだに熱い熱地の真夏を山登りとは物好きにも御念が入り過ぎるというかも知れぬが、これが旅行の目的だとすれば仕方がない。お陰で珍しい熱帯植物の採集と観察が十分出来た。葉肉の厚くて光沢の強い種々のかつ葉樹、気根を幾十本も下ろしているたこの木、蛇の如く巻き上がるたこづる、陰地を蔽うへご、ひかげへご、まるはち等の木生羊歯、すくすくと立って天空に聳える野椰子、珍しい種々の蘭科植物など一々挙げるに堪えない。
旭山の展望は蓋し天下の絶品である。紺碧を湛えたる脚下の海は、眼を放つに従って次第に淡くなり、これを辿れば遂に上天に首を転じ、これを戻れば更に脚下の海に帰って来る。水や空、空や水、何れとも分からぬ辺り、一抹の白雲細くかかって居る。眼を水平に廻らせば、円を描いて再びもとの白雲に帰る。白雲の中に生じたる風は万里の涛を渡って椰子の葉を動かし更に我が袂を払う。
正午、武田牧場に着く。牧場というから牛か羊でも飼ってあるようだが、実は左様でない。初代の島司、武田氏が旭山の一画を卜して、これに牧場を設けようとしたのであるが、後その事が実行されずに終わり、その計画の名残が唯だ武田牧場という名として残っているに過ぎない。何のことだ。ここに小屋が一軒ある。別路から上った人夫は西瓜を切り湯を沸かして待っている。半日の炎熱に苦しんだ我々は先ず西瓜に齧りつく。今夜はこの小屋に一夜を明かして野椰子の新芽(俗にたけのこと呼んでいる)に舌鼓をうつ筈であったが、仕事が案外早く片付いたので宿に帰ることにする。帰りは別路をとって扇浦に出る。扇浦は大村の対岸にある。渡船に乗って二見港を横切る。船は満帆の風を孕んで快走し、二十分にして大村に着く。
宿の婆さんがかんも蒸して待っていてくれた。かんもというのは甘藷の類である。甘藷よりは甘味は少ないが風味がある。徴兵官一行とS君は今夜大隅丸に乗り込んで母島に向かう。月明の夜十時、埠頭に立ってこれを見送り平安を祈る。