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小笠原島の地理と歴史【大正15年「趣味旅行」より】

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小笠原島の地理と歴史【大正15年「趣味旅行」より】

この文章は、大正15年に刊行された「趣味旅行」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


小笠原島の地理と歴史

 小笠原島は八丈島の東南約百五十里。東京を南に距る二百五十里の会場に散在する大小百余の島嶼からなっている。之を詳しく申せば北緯二十六度三十二分より同二十七度四十二分に亘る小笠原群島、北緯二十四度十四分より同二十五分に亘る硫黄島列島、及び之に中鳥島、西の島を加えて、其の総面積一万七百十四町、人口約六千人、そのうち最も大きいのが父島、母島の両島で、これを続って兄島、弟島、姉島、妹島、婿島、嫁島等家族の標本の様な名の島が列んでいる。なこうど島まであるのは結婚まで人手を借らぬ積りらしい。

 抑々、小笠原島という名は文禄二年(一五九三年)豊臣秀吉に仕えた信州深志の城主、小笠原貞頼が発見したによって付けられたもので、絵羽後ではボニンアイランドと言っている。これは無人島が転化したので、初めはその名の示す通り無人島であったが、天保元年(一八三〇年)英、米、伊国人が布哇から労働者を伴って父島に移住した。これ本島移民の最初であって、後、嘉永六年(一八五三年)米国の水師提督ペルリが我が国へ渡航の途次、ここに寄港して清瀬という所に貯炭所を設け、艦隊の便に供せんとした。然るにこの事が端なくも英米両国間に外交上の物議を醸すことになり、却って本島の日本領たることが明らかになると同時に、我が国もこれを主張し、本島開拓の為、文久二年(一八六三年)幕府は外交奉行、水野筑後守を本島に派遣することとなった。

 ところが翌、文久三年が内憂外患並び起った為に、本島の吏民も共に引き揚ぐるの止む無きに立ち至った。その後明治八年、再び開拓の儀起こり、九年移民を渡航させ、島庁を設置し種々の法規を制定して、本島の秩序的経営行われ、以って今日に至ったのである。島庁は東京府庁の管轄下にあるのであるから、大村の警察分署の看板には、東京市京橋警察署分署と書かれてある。なんだか滑稽な感じもする。



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