この文章は、昭和12年に発行された「北日本 定期航路案内 昭和12年度版」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
オタモヰ地蔵尊
これから有名な御賜恵地蔵尊へ御案内致します。大分郊外へ参りまして、御話し申し上げる事もございませんから、御退屈しのぎに北海道の名物、鰊漁の御話を致しましょう。
鰊の採れますのは三月半ばから四月末までの短い期間では御座いますが、其の盛事になりますと忍路高島から朝里、張碓の附近、遠くは厚田、増毛の海岸一面に網が立ちます。けれども「鰊は暴風雨に乗って来る」と申しますが、漁期に入りますと大荒れに襲われて多数の犠牲者を出す事が間々御座います。
これに引き換え、豊漁の時には色とりどりの大漁旗を春風になびかせて、盛に沖揚げを致すので御座います。忙しげに行き交う人々に、波に戯れる鴎さえうれしそうな濱の情景は、さながら凱旋の勇士を迎える様な賑わいで御座います。
大勢のヤン衆達が声を揃えて勇ましい大漁唄を唄いながら濱に、帰って参りますと其の夜は銀鱗の山を囲んで、大盤振る舞いに夜の更けるのを知らない豪盛さで御座います。
昭和十年の総漁獲高は約二十七万石御座いましたが、身欠鰊やカズノコに精製されて食料品となります外、油や〆粕は肥料となり、其の大部分は内地方面に移出されて居るので御座います。これで鰊の御話を終わります。
間もなく、御地蔵様に参ります。
いよいよ御賜恵に参りました。此処で御車から御降り下さいまして、あの坂上まで御歩き下さいませ。~徒歩にて坂上へ~
御堂は此の下に御座いますが、此処からは一寸御覧になりかねます。御地蔵様の御利益は此の様な険しい坂道を上り下り致すので、あるのだそうで御座います。御子様のない御方には御子様が出来、御乳の出ない御方には御乳が出る様になると申されて居ります。又、縁結びの御霊験もあらたかと承って居ります。
皆様の中にはもう御縁結びの方又は御済みの方も御座いましょうが、物はためし、願い事はなんでも叶います。尚、此処で極く簡単に御地蔵様の由来を御話させて頂きます。
今から三百五十年ばかり前、元禄年間には蝦夷松前藩の掟として、和人は男女共奥地と申しまして此の先の神威岬から奥へ入ることを禁じて居りましたが、殊に婦人がこの掟に叛いて神聖な御神威様の崎を越しますと忽ち、海神の怒りに触れて、舟が覆ると申し伝えられて居りました。所が嘉永元年(約九十年前)の夏、或る朝のことで御座いました。それは一晩中荒れ狂った嵐も鎮まって、海面は油を流した様な静かな朝で御座いました。此の海岸に可哀想にも身重の夫人の死体が打ち上げられました。そうして其の身体から乳汁が流れ出て居りましたので御座いました。それで当時この附近の場所請負人で御座いました、西川徳兵衛さんと申す方が不憫に思われて、丁寧に葬り、其の供養の為に御地蔵様を御建てになりました。
それがこの御賜恵地蔵尊の御本体で御座います。
其の後に塩谷村の金沢さんと申す方の内儀さんが乳不足で大変困って居られましたが、或る夜、この御地蔵様の御告げが御座いましたので、一心に祈願をこめました所、御霊験が御座りまして、御乳が出、立派に御子さんを育て上げたと申す御話が御座いました。それが評判となりまして、一年中、雪の中でも雨の日でも参詣人が絶えたことが御座いませんと言う繁昌を致して居ります。殊に六月二十四日は年一度の大縁日と申すので、とりわけお詣りの人々で雑鬧致します。
彼方に見えますのは、龍宮閣と申します。これは小樽の料理店、蛇の目の経営で、此の辺一帯十二万坪を選んで、御賜恵遊園地として、色々と計画して居られます。この辺は所々に鉱泉が湧いて居りますし、加えてこの絶景で御座いますので、当地の代表的な名所となって居ります。
昔は此の附近の海面にかけて、時々蜃気楼が現れたものだそうで御座いますが、松浦武四郎さんの高島日記には「高島のおばけ」と記して御座いまして有名で御座います。
では坂を下りて御参りしましょう。
~小樽市街自動車株式会社 観光バス車掌 浦富士江嬢説明~