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ノスタルジック解説ブログ

奉天【昭和14年 「鮮満支旅の栞」より】

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奉天【昭和14年 「鮮満支旅の栞」より】

この文章は、昭和14年に刊行された「鮮満支旅の栞」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


奉天

 奉天は、遼河の支流渾河の抱く沃野にたち、満州主要都市の一として、往昔からこの地を相して城を置き、遠く渤海の時代から元、明、清の諸代を経て、藩州、藩陽、盛京、奉天と呼ばれ今では欧州・北支に通じる鉄路の結節点として満州交通網の枢軸をなしている。

 大奉天は旧満鉄附属地、旧商埠地、城内、工業地区の四つに大別され、何れも大奉天都市計画に基づき近代性を加えた明朗な商業都市として躍進を示している。

 総人口739,906人中、日本人104,905人(内訳、内地人86,987人、鮮人17,918人)、欧米人1,100人である(昭和十三年六月調)

 旧満鉄附属地は総面積約4,090,000坪、大体に於いて長方形を為し鉄道の東を市街地、鉄道の西を工業地として分かつ。市街は秩序正しい直角形式をなし駅前より千代田通、浪速通、平安通の三大道路を放射せしめ、浪速通の中間に大広場、平安通の中間に平安広場がある。

 浪速通、千代田通は商業地区にして浪速通には邦人の商店多し。附属地東南部は医科大学其の他諸学校立ち並び学校街を形成している。

 現在大市街をなす附属地も三十年前には荒涼たる原野で然もその大部分は墓地であり、日露戦役の狼穿、塹壕等があり血腥き戦場に駅と守備隊があるばかりで日本居留民は商埠地十間房方面に居を構えているに過ぎなかった。かくて今日の如き発達の緒に就いたのは明治四十一年、満鉄が市街計画に着手してからの事で、当時全人口は日支人を合して二千名に過ぎなかった。

 城内と旧附属地との中間に介在する一帯を■ては商埠地と称し各国民の居留地で我が総領事館を首め英、米、独、仏、伊の各領事館があり各国の商売が集まり特殊の雰囲気を作っている。然しこの地域も昭和十二年十二月一日より実施されたる満州の治外法権撤廃で商埠地の名称は無くなった。

 この地域は昔日、頗る繁栄せるも漸次旧附属地にその殷賑を奪われて、今ではその面影もないが満州国国立博物館、瀋陽公園、喇嘛の黄寺、西塔等がある。

 鉄路の西部にある鉄西工場地区は、商業都市奉天が工業都市奉天として新たにデヴイユーした満州の心臓部である。

 市内交通機関には電車、バス、自動車の外、露治時代の馬車、人力車があり、奉天駅前から電車、乗り合い自動車を利用して城内に至れば奉天城は美しい往時の宮殿を中心として、方形の内城とそれを囲む辺城からなっている満州第一の平城である。

 内城は■築で周囲六キロ、高さ十一メートル、厚さ五・四メートル、八門を開き中心には宮殿を始め奉天の首脳をなす諸官営衛が蝟集し城門に通ずる大道は商業極めて殷賑、小西門から小東門間の四平街は大商店が櫛比している。

 満州事変まで中国陸、海、空軍の閣副指令、東北辺防軍総司令としてときめいた張学良の公館は国立図書館となり、日露戦役に大山大将奉天入城の大南門も吉順絲房(百貨店)から望見される。


名勝地

宮殿:
 駅より四キロ、大西門から入れば真っ直ぐに宮殿の前に出る。奉天城は清の太祖及び太宗の宮居した處で、宮殿は金鑾殿と称し東西100メートル、南北269メートル、その境城は大内宮闕、大政殿、文溯閣に分かれて正面には、皇帝が政を聽いた崇政殿がある。文溯閣は一名画書楼と言って有名な貴書四庫全書六千五十二函を蔵している。以前は参観を許されていたが、昭和十一年五月以降宮殿の拝観は禁止された。

市場:
 内城の外側城壁に沿うて、大西門から大東門に至るまで狭長な市場が構成されていて、古着、鍛冶道具、雑貨、骨董品、野菜、獣肉、家具、等の店が夫々軒を並べている。

同善堂:
 本堂は光緒七年(一八八一年)左忠荘公の設立に係る社会救済事業の一施設で、貧民、医務、孤苦、工芸の四部に分かれ掃蕩整備された方法で経営されている。私生児の捨子を受け取る救生所、遁入した娼婦を収容する済良所、乞食を収容する楼流所等は珍しい施設である。

法輪寺:
 西塔と共に護国寺塔の一つである喇嘛の北塔はこの寺に聳えており、寺境にある天地廟には涅槃寂静相を表現した怪奇な男女交歓の像(天地仏)が存置されている。

北陵:
 奉天駅の北方六キロ。陵は清朝第二代太宗文高弟の陵墓で、境城の周囲約八キロ、外壁一・七キロ、内壁の高さ六メートル余りで入り口には一大牌楼が立ち、前三門(正門)を潜って進めば牌楼がありこの間は両側に獅子、走獣(白澤)、麒麟等の石獣が並び、内二頭の馬の石獣は太宗の乗馬を形どったものとして著名である。更に三層楼を成す隆恩門を潜れば廟の拝殿である隆恩殿がある。拝殿の後方には明楼と寝陵があり、半円形の壁に囲まれた寝陵は太宗文高弟の霊柩が葬られている。静寂の奥津城に競う結構の荘と配合の妙は清朝の全盛期を偲ばすものがあり奉天人士の行楽地となっている。

東陵:
 城内から東方約十四キロ。奉吉線の東陵駅に下車するのが便利である。別に、奉天駅前から総局経営の奉撫線乗り合いバスによれば約一時間で往ける。東陵は天柱山福陵と称し、清の太祖高皇帝を葬ったもので、渾河の右岸に臨み老松の中に、朱壁緑瓦聳え附近の天然風水の勝は又格別である。(観覧料は北稜、東陵共、大人国幣三角若しくは金三十銭、学生、小児二角又は金二十銭、普通団体十人以上一角五分又は、金十五銭、小児一角又は金十銭、正服軍人及び六歳以下無料)

国立博物館:
 建物は湯玉麟の私邸を改造したもので白亜三階建の高壮なものである。仏像、服飾類、陶磁器、書画、古代遺品等多数が二十一室に分類陳列され見学価値多いところである。



【視察の順序】
〇半日行程の場合
駅(旅館)ー忠霊塔ー国立博物館ー北稜(又は北大栄)ー城内ー吉順絲房(百貨店)ー帰着

遊覧バス(18人乗)五時間
普通団体18円 中等学生以下 15円
但し大型(25人乗)の場合は前記料金の三割増、五時間以上使用の際は右何れの場合共一時間につき金三円

馬車 九~十時間(一日行程と同じ)
普通団体 2円 中等学生以下 1円90銭


〇一日行程の場合
駅(旅館)ー奉天神社ー忠霊塔ー国立博物館ー同善堂ー北稜(北塔)ー城内ー故宮殿前通過ー吉順絲房(百貨店)ー旧大栄ー満蒙百貨店(又は七福屋百貨店)ー帰着

遊覧バス(18人乗) 八時間
普通団体24円 中等学生以下20円
但し大型(25人乗)の場合は前記料金の三割増、八時間以上使用の際は右何れの場合共一時間につき金三円

馬車の場合は半日行程の欄参照されたし。

順路外割増料金、半日及び一日行程でも左記箇所を追加した場合は一か所毎に二円の割増料金を要(大型使用三割増し)
・鉄西工業地区廻り・大東門以東兵工廠方面廻り、北飛行場廻り、北塔廻り、小東辺門廻り


〇時間貸料金、一時間五円(大型三割増)但三時間を超過する時は超過一時間につき三円(大型三割増)


〇定期遊覧バスは毎日駅前発車。期間は五月から十月迄。駅前を十時出発七時間(午後五時)頃帰着。料金は一名二円五十銭(北稜、博物館観覧料を含む)、小学生以下一名一円五十銭。

女子案内人付でコースは駅ー奉天神社ー忠霊塔ー鉄西工業区ー国立博物館ー同善堂ー北稜ー城内故宮殿前通過ー吉順絲房ー北大栄ー満蒙百貨店(又は七福屋百貨店)ー帰着



【旅館】
ヤマトホテル(様式)、瀋陽館、大星ホテル、平和ホテル、温泉ホテル、大丸旅館、マルナカホテル、日満ホテル、昭和ホテル、松島旅館、東亜旅館、武蔵屋旅館、九州館、常盤旅館、日進旅館、平安ホテル、身上旅館、一力旅館、満州旅館、浮月旅館、住吉旅館、奉ビルホテル、七福屋ホテル

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