この文章は、昭和14年に刊行された「全日本国力総動員」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
沖縄県
「国民精神総動員」
国民精神総動員中央連盟で強調週間を期し集団勤労奉仕の一項をあげて公共奉公の精神要請に全力をあげてつとめ、この運動を種々の方法で促進することとなったが、従来こうした奉仕的の精神は全然ないわけではなく、さまざまの形において実践されているが、今日のような戦時体制下において特に長期戦に入った場合は一層この精神を発揮して隣保相扶、公共奉公ということが必要となって来た。
本県でもこの運動の提唱されるや全県挙ってこれに参加、「蘇鉄地獄」のいまいましい名を背負った郷土に理想郷を建設せんとする若人の意気を各地に見受けられ、藏重知事は閣市町村に亘って勤労運動状況を観察して廻った。
ここでは各市町村部落の男女青年団を単位とし、収穫、整地、播種、植え付け等の集団勤行を行っているが、この県の特色としては毎月一回、米無し日を定め、甘藷の歴史を回顧せしめ、食料品の県内自給拡充のため甘藷勤労工作を行っているのである。
奉仕作業としては毎日夏は朝六時から一時間、多は同七時から一時間、応召家族、戦死傷家族への奉仕、就寝前の一時間を神社の清掃などに奉仕している。また従来、この県の習慣として労儀に従事するものは午前十時、正午、午後三時の三回に一時間づつ休憩時間をもうけていたのをこの際、断然、休憩は正午の一時間のみとし、もって怠惰の民と言われる県民の汚名をのぞかんとの挙に出ている。
八重山郡大濱村白良小学校長、石垣某氏の提案による素朴な女子青年団新作業服が全県下に奨励せられ、これで身を固めた女子青年団員の郷土振興のために集団勤行にいそしむ姿、その運動が県下至る處に展開されて頼もしい戦時色を呈している。
島尻郡第一塩見小学校六年生、赤嶺之男君、五年同弘君、二年同隆君という三人兄弟が、隣村真知志村宇口場から真玉橋へ通ずる道路の著しく破損し、荷馬車や人畜の通行困難をきたしているのを見て、三人協力して本年一月十五日から、毎日未明こっそり床を抜け出しては、砂礫や石炭殻を持ち運び泥濘の路面に埋め、根気よく暁の奉仕を行った結果、三月に入り約二か月ぶりで、見事に修理が出来上がった事を村民が知っていたく感激、爾来部落勤労奉仕運動の端を開いた、という記事が当時の新聞に出ているが、けだし国力総動員の美談中、最も効果的なエピソードとしてここに挙げることが出来るだろう。