この文章は、大正7年に発行された「広重五拾三次現場写真対照」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第一 日本橋(武蔵)
一幽斎広重の「東海道五十三次」は天保五年の作に係る。而して其の振り出し「日本橋」は即ち江戸の中心にして、又四方行程の元標たるのみならず、橋畔の魚河岸は江戸名物の随一と称せられ、今尚、本邦第一の魚市場として其の名、世界に喧伝せられる。
さて此の橋は慶長八年、幕府の手に依って初めて架設せられたるものにして長さ二十八間、北は室町に通じ、南は通町に続き、府内南北の大路是に係り橋南の西側を御高札場となし、木橋にして欄干に擬宝珠を施しありしが、維新後、和洋折衷の木橋に架け換え、明治末年更に工費数百万円を費やして壮麗なる石橋に改め、大に其の面目を一新したり。広重の図は即ち、東天将に紅を潮する朝まだき所謂江戸っ子の粋を以って誇る肴屋等が、今や魚河岸の買い出しを経て市に出づる後ろより「下へ々々」の声おごそかに大名行列の前駆意気揚々として橋を南に渡り来れる光景なり。