忍者ブログ

ノスタルジック解説ブログ

東京の花柳界【大正6年「東京の解剖」より】

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

東京の花柳界【大正6年「東京の解剖」より】

この文章は、大正8年に刊行された「東京の解剖」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


十三 東京の花柳界

色廓と江戸側面史

 新吉原、洲崎、新宿が先ず東京の遊廓であって、其の他柳橋、新橋、日本橋、赤坂、葭町を始め、下谷、牛込、浅草公園、深川、富士見町、烏森などの町芸妓があり、各々多少の特色はあるが、ここには遊女町として新吉原、町芸者としては柳橋の両者について、あらまし述べて見る事とする。両者とも各々東京に於ける草分けたる歴史を有し、現在に於いても亦、東京に於ける代表者として自他共に許しているのであるから、総てに於いて便宜であろうと思う。

 慶長の始め、大江戸の城に瑞雲が棚引いて、戦国の波風漸く静まりし後、打ち続きし三百余年、泰平の側面及び、江戸の発達を知ろうとする者は、必ず新吉原の歴史を知るの要があろう。昔の吉原遊女には張りも意地もあって、江戸男の任侠闊達なる好尚と相俟って、井一種の寛かつ風をつくりあげたのは動かせない事実である。所謂、名妓といい大夫といったものは嬌名と共に亦、侠名も高かった。寛永寛文に起り、元禄豪華の世に栄え、明和安永に艶麗となり、文化文政に至って奢侈となり、ひいて現代に及ぶまで江戸風俗の推移は、即ちこの里に依って窺い得るのである。


旧吉原の建設

 慶長年間まで江戸の遊廓は各所に散在していて、京都六條から移った麹町八丁目、駿府弥勒町から移った鎌倉河岸、江戸在来の柳町の三か所がやや軒並みの揃った方であった。慶長十七年の頃、相州小田原の人、庄司甚内が尽力の結果、各所に散在せるものが一廓に集まる事となり、元和三年の春、幕府から葺屋町の下に二町四方の土地を賜った上、甚内其の名主となり、ここに吉原の建設となったのである。其の土地は現今の日本橋区の和泉町、高砂町、住吉町、難波町の附近で、竈河岸の小堀が廓の外堀であったという。而して当時は附近一帯は一面の葦沼で人家は一軒もなかった。葭町の名は即ち其の葭にちなんだので、後更に吉原と改めたのである。愈々花街の開かれたのが寛永三年十月九日、徳川三代将軍家光公の治世で今から二百九十年前である。

其の町名は江戸町一丁目(柳町にありしもの)、江戸町二丁目(鎌倉河岸にありしもの)、京町一丁目(麹町八丁目にありしもの)、同二丁目(吉原開設の事を聞いて大阪、奈良等より移り来たりしもの)、角町(京橋角町にありしもの)の五町で、次第に繁盛を極ると共に、江戸文化発達の導火線となった。


新吉原の沿革

 吉原の開設後、約四十余年を経た明暦二年十月十口に、幕府は突然他に屋敷替えを申し付けた。よって吉原の年寄り共は今の新吉原を選んで許可せられ、翌年三月までに引き移るべき筈であったが、翌年正月、恰も明暦の大火があったので、暫く山谷今戸辺りの仮宅で営業し八月愈々現在の地に移ったのである。新吉原の名称は元の吉原に対する名で、町名は旧の如く新たに五十間町、揚屋町を加えたのみである。最もこの外に種々の町名はあるけれど、公の名称ではない。

 次に昔時、妓楼の等級は遊女の品位に伴う高下があった。遊女の区別は太夫、格子、局、散茶、切見世、女郎の七階級で、妓楼も太夫格子店、局見世等と呼ばれたが、寛政以降になって大籬、半籬、大店、小見世、小格子、切見世等に区別した。籬の構造は高いのは天井に達し、低いのは二尺に過ぎず、大籬の格子は幅七寸の朱塗で、間口十三間奥行き二十二間を限り、小格子は幅三寸の定めであったが、明治五年以後は妓楼の構造には一定の法がなくなり、単に遊女の品位に差別がある位になった。その結果、大店は建物、器具に至るまで宏壮華美な事とするようになったのである。現今では大店、中店、小店の三つに区別されているが、この区別へ娼妓の品位とは別問題である。而して現在の妓楼には三層四層という高閣のがあって、洋風和風とりどりであるが、明治維新までは二階建以上は許されなかったのである。


娼妓の風俗一般

 将棋の部屋は勿論一様ではないが、所謂大店では通常二室、お職三室が普通で、小見世では部屋持といってわずかに一室を持っているのもあり、一定の室を持っていないものもある。而して大店では座敷よ呼び、小見世では部屋と呼んでいる。次に大店の二室を持っているものに就いて室の模様を記して見る。

座敷
 大概八畳敷、床の間や違い棚があって、床には真偽はとにかく名家の書画などをかけ、花瓶、遊芸道具、化粧道具、小説本なども備えてある。それから黒塗りの衣装は必ず備えて合って、これにシカケをかけるので、別に六枚折の屏風が置いてある。

部屋
 座敷に隣りて普通は四畳半である。日常の調度、夜具座布団、うがい器を始め食器を一通りと、長火鉢などが準備してある。この外に別に名代部屋というのはあって、これは楼内共通の部屋で客の輻輳した時に備えてあるのだが、小店も下の方になると割床といって一室を屏風で二つなりに仕切ってあるところがある。それから現今では娼妓の衣装も一定せず、金糸銀糸の刺繍のある三枚重ねのシカケ、縮緬の長襦袢の襟には派手な縫いを施して、繻子の前帯したのもあるが、友禅の衣装に紫ジュス、これに三紋を施したのもあり、或いは芸者風、洋風、女学生風などなどいう、珍なのがある。

小見世となると縫物のシカケにモスリン友禅の長襦袢で遠目を誤魔化している。髪は慶長頃まで下髪であった相だが、寛文年間、勝山という太夫が勝山髷というのを工夫し、天和以後、兵庫髷や傾城島田など華奢なるものが流行し、安永年間になって錦祥女髷、空蝉髷、中鬢菱づと、横兵庫、山形取髷、立兵庫などが加わり、以後また幾多の変遷を経て文政頃から立兵庫と島田が主になったのであるが、現今は束髪なども少ない。


吉原の今昔

 吉原には妓楼以外に今は廃れたが揚屋、引手茶屋など種々の設備があって、その変遷を研究すると興味があるが以下現存せるものに就いてのみ簡単に記すこととする。

△引手茶屋
 揚屋が引手茶屋の勃興によって廃れ、引手茶屋も幾変遷を経て、今日では主として遊客の為に案内周旋の労をとっている。現今では廓内の各所に散在していて物慣れた女中が、客を楼に案内して杯盤の事から室の事まで一切の世話を焼くので、客が芸者を呼ぶ場合は客の寝衣と三味線箱を左手に抱え、右手には提灯と白丁(一升位入る酒瓶)とを提げて行く。そして提灯は敵娼の座敷まで灯して行くので、消す時は煽いで消す。そして客の帰る時刻を予め尋ねて置いて、時刻に迎えに行くのである。客は引手茶屋に帰ってから勘定を払い、貸座敷へは引手茶屋から交付するのである。万延年間には僅か十八軒しかなかったのだが、今日では七十軒内外もある。

△幇間と芸者
 吉原に於ける幇間は既に新吉原開設の前後からあったようだ。而して幇間は座持と太鼓持ちの区別があって、座持は香、茶、生花、俳諧などの諸芸を心得たるもので今はないといってもよい。太鼓持ちは現在残れる幇間で野卑な踊りとかおべっかにより、客の興を補けようとする奴で、現今四十人近く居る。芸者は宝暦十年頃から出たものらしく、漸次数を増して現今では百五十人内外もいる。が、彼等は昔から娼妓をおいらんと呼んで、上に仰がねばならず、殊に歌謡などの文句中に吉原女郎衆などとある場合、吉原おいらん衆と言い改めて唄うという風である。

△其の他
 豆どん、かむろはとくに廃り、現にいる新造も旧の新造とは大いに趣が異なっていた。娼妓の召使同様である。又、遣手は今のおばさん、楼丁は客引き、始末屋は馬(東京の裏面の詳記せり)、この外に台屋というのがあって、現今は煮魚、刺身、酢の物、鍋、汁物、鮨、菓子、蕎麦などを貸座敷へ持ち込んでいる。


遊興費が一月二百万

 洲崎遊廓も風俗等は吉原と大同小異で、現在の女郎屋が百七十余戸で、娼妓が千七~八百、之に付属する店の従業員、立ち番、仲働、やり手などが約七百人、芸者が四十人に幇間が三~四人余であるが、洲崎だけで落ちる金が一月に約七万人で、十万以上。日本の救世軍が社会事業に費やす一ヶ年の経費と略同様である。而して東京全体の色廓に落つるこの不生産的な消費を計上して見ると、一ヶ月役に百円に上るのである。客一人の消費を仮に五円と見ても四十万人、日に一万三千余となる。何と驚くではないか。これでは公娼廃止論者も手のつけようがなかろう。ちなみに吉原も洲崎も張り見世を禁止されて凡てバー式の面目に改めたけれど、張り見世以外には何ら変革もなく従来の儘である。けれども吉原にしろ洲崎にしろ、あの華やかな張り見世を以て江戸名物の一つとなっていたのであるから、まあ江戸名物お一つを失ったといっても可なりだ。


柳橋の今昔

 神田川の隅田の流れに灌ぐところ、遥かに両国橋の長虹を望んで架かるのが柳橋。その橋名にちなんで得たる柳橋は由来橋名ならぬ嬌名と侠名を以て称せられ、また江戸における町芸者の草分けである。江戸繁昌の頃、このあたりに屋形船を備える者が多く、春花秋月、夏は納涼に冬は雪見に江戸前気質の豪奢の客が、ここからその纜を説いて隅田の長江に乗り出し、シ竹管弦に水神を驚かしたのも江戸名物の一つであったのだ。故に苟も風流を解し雅を好むの士は競ってここに遊んだのである。これら江戸男の闊達なる好尚は、自づから柳橋芸者の気風を淘汰して、カンカツ風を作り上げた事は争うべからず事実であろう。而も後ろには隅田の大江を控えて夢に千鳥の歌を聴き、自ずから優雅清爽の感化を得たるや亦、当然の理である。由来江戸趣味を味わおうとする者は先ず柳橋に遊ぶというが、最も近道であることは動かせぬ事実である。現今柳橋に於ける旗亭で最も名高いので亀清、柳光亭、深川亭などである。待合では岸中村、紅葉亭、繁の井、高砂や等で他に四件、芸者は総て江戸肌揃いで、六十余名であるが意気地あり、張りあり江戸気質は今やわずかにこの芸妓によって残されているといっても過言ではない。だから他の新橋、赤坂等の芸者と同席しても常に一目を置かれているとの事だ。とにかく江戸喫水の芸者としての東京名物の一つに数うるに足りるものであろう。
PR

コメント

プロフィール

HN:
ノスタルジック時間旅行
性別:
非公開

P R