この文章は、昭和5年に刊行された「浅草女裏譚」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第二、明治浅草安芸人
五、娘義太夫流行時代
浅草公園で娘義太夫が、第二期の全盛を極め、ひどく流行し、遂に蒸し返しへの隆盛を極めたのは、浪速踊りや女芝居が、全く衰え、其の蔭を没して終わってから、程経た大正四~五年頃です。つまり六区の大衆が浪花踊りや、娘玉乗りや、女芝居には飽きたが、しかし、それに代うべき女の活躍が見たくなって来たので、そもそも娘義太夫が流行する前兆であります。
そうした前兆が、ほのめき始めると機を見るに敏な浅草興行師は、華やかなるべき娘に昔ながらの裃を着せて、高座に立たせましたが、案の定、人気を博したので、それからそれへと流行し、再び明治時代の盛況に復したのが大正二~三年頃で、而も、それから間もなく、江戸館、バテイ館、東横亭の三か所がその常設館となり、外にも落語や、曲芸の中へ、一段乃至二段をはさむと言ったように、大抵の寄席が、それを手掛けるようになりました。
わけても今の玉木座(其の当時は御園座と言い、たしは池の端の方が入口になり、少し引き込んでいたと思います。)、などは必ずどんな場合でも、一段の義太夫を入れたものです。
こう言う風に、娘義太夫は、一時可なりの人気で、明治時代のそれのように、普及されましたが、しかし、其の裏面には、矢張り魔の手が動いていました。女優達に、「お座敷と称する閨房ときにあり」の例に漏れず彼女達は、それ以上に発展したものです。
そうです。女優達には、「あたしこれでも芸術家よ、失礼な」と言う売位があっても、彼女達には、それがなく、先ずしぼれるだけしばり、厭になれば、そこで始めて「失礼な」と叩きつけても決して遅くないと考えっていたらしいので、其の発展振りは、ひとしお目立つものがありました。
殊に甚だしい者になると、幟一本と貞操とを交換したと言う話もありましたし、又ひどく酔っぱらって懐中物を覗うことを忘れ、男抱いていたなどの悲喜劇的な話も聞きました。
私は一般遊野郎の例に漏れず、たしか団艶と言ったと思いますが、或いは単に艶子であったかも知れませんに、ポッとした言う程でもありませんが、或る一種の期待を持っていました。彼女は娘義太夫に似ず細っそりとした容姿のいい女でした。
處が意気地のない、控目主義の男は、其の期待を充たす為めの運動もせず、又其の機会を見出すことさえもせず、馬鹿が嬶アを待つような格好で、殆ど毎夜の如く出かけるのでした。そして、全く数え切れない程、日参したのです。
處が不思議なことには、彼女の声がだんだんと、日増しに衰え、それが募って来ると、彼女はとても苦しそうでした。しかし、幾ら苦しくても咽喉の商売である以上、しぼり出さねばなりません。けれども彼女が努力すればする程、彼女の声はすっかり乾び、少しも通りません。私は最初風邪を引いたなと、善意に解釈していました。最もそう解釈することが、私には快いことであったからです。しかし、其の考えは、日増しに募る彼女の醜悪さによって、見事裏切られて終いました。そして、それと同時に、世の中は、私のような控目主義な、意気地のない人間許りではない。もっと快活な、男性的な、そして、能動的な、しかも、一押しの強さを示す者が幾らもあるのだと言うことをはっきりと意識しました。
それから又、こう言うことがありました。それは震災真近のことですから、たしか大正十年頃のことであったでしょう。当時伝法院の前通りに、住んで居た或る卜者の娘で、姉が三味線で、妹が義太夫で、姉の方が松栄で、娘が松重と言いました。無論、今日でも時々見受けますが、兎に角、当時卜者の父ちゃんの箱入り娘で、この二人を手の中の玉とあがめ奉っていました。最も今日尚お且つ箱入り娘であるが、或いは解放して、他人に其の権利を譲ったか、其の辺の消息は分かりませんが、何れにしますも当時、売り出しでもあり、又年は二十八か二十九からずの若さでもあるし、乃至は又、年の若さに似ず姉の三味線は因より、娘の義太夫も共に、天才的のひらめきがあったので、吾々遊野野郎共が、ひどく眼尻を下げたのも宜なる哉です。
しかし、姉の方は兎に角、妹の重松は、どちらかと言うと、小づくりで愛嬌こそあれ、左程美人と言う程の女ではありませんが、どこかしらういしく純な感じを與えました。その女に閻魔様の親類続きである石角ともあろうものが、ぞっこんとまで行かないにしろ、苟しくも惚れたの腫れたのと、大平らに、しかも、片面的な、片思いをするなどは、如何にも腑に落ちない話です。しかし、そこには有力な理由があります。それは外でもありません。常時私は或る対象を失い、この世を■したいまでに、失恋の苦しみに悩んでいたのです。
處が偶然にも彼女が、どこかした其の失恋の対象に、よく似通っていたので、私の死せる魂が或る一つの希望と共に、まざまざと蘇えって来た訳です。仮令それがアワビに似た恋であるにしろ、私の死滅に瀕した魂が、彼女の顔かたちを見ることによって、除ろに、しかし、或る時は急激に活き返りつつあったのです。ですから私は、彼女の高座と言えば、大抵の場合、見逃しませんでした。そして、それによって、手ひどく受けた古疵を少し宛治癒し、慰めていたことは、今日に至るまで、誰れ人地として知る者もありません。
最も私は彼女に対し、普通の遊野郎式な忌まわしい考えなど、微塵も起こしたことはありません。■って一度も会ったこともなければ、又、近寄ろうとも考えませんでした。ですから無論、彼女は私と言うものを絶対に知りません。況や、私一人に秘められた意中留保など、神ならぬ身の知る由もありませんでした。全く自分ながら解することの出来ない心の動きです。と言いますのは、彼女を見ていることは、疲れた心をいやす唯一の慰安でありながら、彼女から見られることが何となく、気恥ずかしく耐えられませんでした。ですから大抵の場合、人影に蔭れて人知れず享楽をむさぶりつつありました。
こんなことを言えば、私を知る人は必ず否定するに違いありません。殊に私のようなでかたん式な男に、こうした神秘的な、そして、奇蹟に似た霊魂が発動するなどは不思議と言うよりも、寧ろ不可解なる現象です。
それから又、義太夫として、浅草で美人でもあり、気質もよし、芸も飛び切り達者だと言う所謂、三拍子揃った世にも珍しい女がありました。それはずっと昔のことで、たしか新畑町かあるいは稲荷横町かも知れませんが、役者の定紋付きの草子を専売にしていた家がありました。そこの娘が、所謂、三拍子揃った女で、其の当時、通人とか、粹人とか、遊野郎とかは、因よりのこと、固い固い固蔵君までが、我こそ彼女の出頭の天たらんと、おすなへすなの大混雑で、求婚申し込みの甘い連中達が、時ならずも雪崩をつくって押し寄せたと言うことです。
それからずるい連中などが、彼女に直接談判をすると、「あたしお父さん任せですから、どうぞお父さんにお話しくださいまし」と芸人らしくもなく、ポッと頬を赤らめ、而も、親孝行を広告するので、当時の遊野郎共の評判は大したものでした。
が、しかし、果てのその後、彼女の父親が、彼女にふさわしい夫を押し付けたでありましょうか余りに古いことでもあり、又其の後、定紋草子屋もなくなったので、今日どうしたか、其の消息は解り兼ねますが、兎に角、美しき彼女の身の上に多幸あれと祈らずには居られません。