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ノスタルジック解説ブログ

瀞峡谷【昭和5年 「峡谷と温泉」より】

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瀞峡谷【昭和5年 「峡谷と温泉」より】

この文章は、昭和5年に刊行された「峡谷と温泉」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


瀞峡谷

 鳥羽湾の風景を賞したるついでに、両地毎日一回づつ出帆する名古屋大阪航路の龍田川丸に乗って、長年憧れていた紀州の峡谷瀞八丁に遊んだのは、これから次第に暑くなろうという七月の中旬であった。鳥羽湾の風光の佳いことは予てから聞いていたが、実景に接するに及んで、その真なることを確かめた。

朝六時に前に宿を出るとまっすぐに無線電話局のある日和山に登ったのである。そうして戸をあけたばかりの山頂の茶店に腰を休めて波静かなる湾内の朝景に相対した。抑々志摩という国名は島から転化したものだと何かの書物で見たことがある。全く島だらけだ。うんざりするほどある。手前の方から見てゆくと、この湾のなかで一番有名な答志島と菅島とが左右へ控えながら小さい坂手島を抱いている。この三つの島が湾をかこんでいるのだが、そのまわりにも恰も碁石を打ったように、飛島、浮島、日向島、牛島、大深海、小深海と灯台のある神島とが少しづづ離れて群がっている。その間に島とも岩ともつかぬものが散在しているのだから、数え上げたら幾つあるかわからぬ。この島々が松らしい蒼冠をいただき、お互いに岬角を突きいだし、崎端を差し伸べながら青い海波の上に横たわっている景色には全く目が醒める。美しいパノラマだ。どんな無風流な者でも、この大きな天然の細工に対しては無感情ではあり得まい。実に拵えたような出来栄えだ。

海の景色にも色々あって、向こうに見ゆるのが雲か山か、いや、時には何もないほど無際涯の渺茫たる大海様式のものもあれば、この湾の眺めのようなものもある。見渡す限り、空と水のほかには目を遮るものがないのは、いかにも雄大には違いない。あまり大味に過ぎる趣味で、色に於いて締めくくりがなく、形に於いて掴みどころがない。広がりすぎる。

そこへ行くと、この日和山の上から見渡したこの湾の展望などは、前方の遠州灘を大小の島々で、これだけの範囲に区画しているので、海景はちょうど額縁の中にはめられている油絵のような具合に、きちんと整頓され、こじんまりと纏まりがついている。放漫なところがなくて鑑賞するに都合がいい。日本人の趣味に合う日本式の海景だ。

島々の展望では山の上から見渡す陸前の松島や、肥前氏まばらの九十九島や、長崎港外の島景もいい。が、それに比べるとこの鳥羽湾などは優るとも劣らないように想われる。それほど辺鄙ではないのに、どうして世に持て囃されないのだろうか?東京日日新聞主催の名勝選定には漸く日本百景のうちに入っているが、もっと宣伝されてしかるべき充分の資格をもっている絶佳な理想的な避難港である。

この日和山が実にまた御誂え向きの好展望台だ。海気を含んで心地のいい朝の微風にそよそよと髯をなぶらせ、心ゆくばかりの展望を貪ったところで、そう悠長にも構えていられないので、有田焼の杯のような可憐な朝顔の花が、露に濡れた草陰から白く、ぱっちりと覗いている山路を下って鳥羽町へ戻った。

汽船の入港時間も近付いていたからであるが、三十分の後には、少しおくれて日向島の影から現れた龍田川丸の甲板に上っていた。午後九時。私はこの汽船と共に日和山頂から望んだ美しいパノラマの中へ入っていたのである。

三等はかなり混んでいるらしい景気だが、甲板のキャビンには、名古屋辺の商人らしい小行李携帯の一組と、奇声の途にあるという学生と、熊野や勝浦に渡る男女あわせて二十人ばかり。閑楽なものだ。船は少し傾きを見せながら、造船の盛んな港を後に菅島の棒鼻から、国崎の突端、鎧崎の沖へ舳を向けた。

右手に見ゆるその鎧崎から南の長岡の岬や菅崎の浜は、誰でも知っている真珠貝や鮑の産地で、男よりは女が働く。いわゆる海女の世界だ。彼女たちが紅い腰巻一つで鮑を漁っているところを見たことがないから、歌麿の筆になる浮世絵の海女のような詩的なものかどうかは知らないけれども、想像すれば艶やか情趣が浮かび出て床しくもある。

この長岡村のうちで、漁った鮑を神宮へ奉納するのは国崎だという話。客船の一人で志摩通らしいのが、鮑の講釈をしているのだ。浜続きの菅崎と安乗崎とは船の上から見ると陸続きのようだが、そこは切り離れて的矢湾への入り口になっているのだ。

安乗の灯台の白い姿を後に、大王崎へ近付いて行くと、海はそろそろ遠州灘の地金をあらわしてうねり出したが、幸の凪で風が強くないから、波浪もさほど高くない。客船のなかの女たちは、この辺で揺られるかと思って心配した向もあったが、この分なら大したことはなさそうだという顔つきだ。

しかし、いよいよ大王崎の港を掠めて、十一時ごろ、波切港へ立ち寄り、船越の沖へ向かいつつ外洋へ進み出るころから、誰もが予期している通り、浪は高くなり、船の動揺は大きくなって来た。おまけにこの辺は、いつだったか、何とかという軍艦が難破したことさえある。暗礁の多い場所なので、老練な航海業者でもかなり難破するそうだから、乗り上げる気遣いはあるまいけれども、何だか気味が悪い。船客たちの顔面からは血の気が少しづつ消えて行く。船酔いの始まるしるしだ。

文字通りの怒涛。浪の山脈がうねり起こって船の横腹にドンと打ツつかり高飛沫を揚げて砕け散る。大きいロオリング。激しいピッチング。船は忽ち水の山上に持ち上げられるかと思うと須叟にして水の谷底に沈み下がる。推進機の空転が頭の芯に響いて、海国育ちの荒波には慣れている私だが、さすがに胸がわるくなりそうだから、舳から艫の方へ、艫から舳の方へと甲板の上を急ぎ足で往復しはじめる。船の同様をできるだけ感じないための運動だ。

左舷の彼方は水また水の、船の影一つ見えない大海原だが、右舷の向こうは細長い半島の根つけになっている船越の村落から続く砂洲に、谷地や小湾の切れ込みがあって、麦崎の岬角をのぞくと、砂浜遠くつらなり、ほとんど一直線をなし、その間に布施田、和貝、越賀の漁村が列んで見える。

それから岩井崎の岬端となって半島の鼻のような御座崎があらわれるのだが、山に密生する蒼い松樹と赤い土とが強烈な夏の陽に照り輝いて、明るい海の水に映っているのが何とも言えず美しい。南国の色彩は、ものこの辺から認められるのである。この御座崎の沖合いから次の停泊港である長島町までは三時間も揺られていなければならなかった。昼飯を運ばれても食べる気がしない。船客のなかには、もはやすっかり降参して枕を並べたまま頭も上げ得ない体たらくの連中も大分あった。

こんな穏やかな日和に、これだけの高波を打たせるのだから、風でも出たら、どのくらい物凄くしけるだろうと思った。「陸は極楽。海は地獄」といわれる土地だ。なるほど頷ける。私などは少しぐらい波が高くても、海の上は涼しくって暑さを知らないから、夏の旅は船で往けるところなら船に限ると思うのだが、船に弱い人は酔うから考え物だ。船客のなかには、自動車で陸を走った方がよかったと思う者もあったに違いない。波切港から長島までの海上がぞっとしないのだ。

しかし長島から南の尾鷲町に下る時、沈むにはまだ早い真っ紅な夕日を肩にあびた五千六百尺の大台ヶ原山が、鉾のような山嶺をつらねて西空に脈々と走っているのを甲板から展望した。それは寔に崇高雄大なる壮観である。

鳥羽港から勝浦港への船上第一の眺めは、けだしそれであろうと思う。尾鷲はもっぱら材木を集散する港だ。ここから九鬼を経て、東流する黒潮の激しい熊野灘を南へ下り、二木島浦に寄港して木本町へ汽笛ゆるやかに入るころには、永い夏の日もはや暮れはて、港の家々にともれる灯が波に浮かびゆらめいていた。

ここから熊野浦づたいに屈曲の少ない沿岸を更に南へくだるのだ。船室に寝転んでいると、夜の海風が吹き込んで来て非常に涼しかったが、何しろ闇の中を縫って三時間も航するのだから流石に退屈した。

そうしてやっとのことで勝浦に着いたのは十一時過ぎだ。ここで熊野行きの一座と一緒に船を別れて上陸した。実に十四時間も波にもまれて来たし、碌に飯も食わず、酒も口にしなかったので、足がふらふらだ。どうせ今夜はこの港町で泊まらねばならないから、早く休みたいと思って、熊野行きの連中に宿屋の在所を尋ねると、そんなら一緒においでなさいというわけで、越の湯旅館という宿へ連れて行ってくれた。この連中も泊まるのだ。

翌朝も熊野地まで道連れになったが、新宮鉄道の一方の端である新宮駅について下車したのは、午前八時であった。古風な街だ。名にし負う熊野川の、北山川の長流と合し南牟婁郡で境をなしてこの新宮浦に注ぐもの、河原から遥かに西を望めば、那智、高野、法師、大塔の山々が双眸のうちに入る。なかなか山水の景に富んだところだ。

その熊野川を熊野川飛行艇株式会社のプロペラ船で遡り、宮井から右折して北山川を二里ほど往ったところに、瀞八丁の大峡谷があるのだ。

汽船の発着所へ尋ねて行くと臨時船に折りよく間に合った。実は七時半に出ることになっているのだが、乗客定員に満たなかったので時間を少し遅らした形。私には都合がよかった。船客は大阪からやって来た団体十二~三人。船会社の人。私である。

船が動き出してから、駅の附近で買った名勝案内記をひろげて見た。それによると、この辺一体頗る名所旧跡が多い。新宮には官幣大社熊野速玉神社。神倉山。阿須賀神社。八咫烏神社。有名な熊野牛王。昔秦の始皇帝を騙して、不老不死の薬を取って参りますといって莫大の金を貰って日本へ渡来したという支那人の徐福の墓や新宮城の址。これは天和四年浅野右近太夫忠吉の起工にかかり、水野出雲守重央うけついで、寛永十年二世重良その工を竣え、寛文七年に三代目の重上が増築完成したものであって、水野氏代々の居城。明治維新に及んだとある。別名を丹鶴城ともいうそうだが、いまはただ、塁壁のみ残っていると。

それから行家卿の屋敷跡。行家卿というのは例の六條判官為義の十番目の子で、この町で育ったから新宮十郎とも称したとある。その屋敷跡は彼が高倉宮の令旨を関東の源氏に伝えようとして熊野に帰ると、平家一味の大江法眼がそれを窺って、ここで大いに戦ったというのである。その屋敷跡から数町にして、霊水湧きて安産に効ありという円山公園や浮島などがある。瀞八丁から引き返して来るのが、午後三時半ごろだというから、今日のうちに再び新宮を発って勝浦へ逆戻りするにしても、これらの古跡はゆっくり見物して歩くことが出来ると思った。


 船は静にすべり出した。この熊野川は那智山の北東を貫いている川で、上流は木曽川と北上川との二支流に分かれている。瀞八丁はこの熊野川の上流宮井から岐れ、北上川を遡ること四里の上流だ。右岸は和歌山、奈良、左岸は三重というように三県の境界にあるのである。


 船は油を流したような水面をプロペラの音高く遡る。この幽境は全く日本南端の、そして近畿的風景である。遡航するに随って、益々「瀞」としての特徴をもって、鋭牙錯綜とした峻嶂と相俟ち迫ってくる。


瀞八丁の後洞門

 真夏の頃になるとこの谿畔には学生立ちのキャンプ生活が盛んなことも聞いた。この無人境の感じを抱かせる峡の、■巌屈出して削られた壁のような岩の千姿万態の奇絶の景が水面に影を落としている中を、プロペラ船の舳は静に割って遡る。


 眼前に展開される屏■環のようなまた虎豹が■居してたるような、また縫裂したような屈曲磐折窮りなく復通した岩の形も面白く、への字岩、弁天岩、女男岩、亀岩、天柱岩、鯉瀧上り、屏風岩、虎岩、銚子岩などが左右に断続相連なり、恍惚として仙裛に遊ぶの感を興えるものである。

 そうしてまた瀞として澗水の緩やかな流れと、碧淵の渓谷の空気とが、不気味な静寂を孕んで身に迫ってくる。

 山間深く迂曲しているこの神秘境には、たゆみなく旅する鈴掛衣装の旅人、行者たちでさえも類稀このな幽■の景に、半日を割いて船遊びをするに相違ないと思われた。

 殊に初夏は躑躅花、石榴花等の開いて、淡粧濃姿の水に相映するさま言うべからず。季秋はまた黄櫨丹楓の影を碧潭に浸す奇を呈するということである。

 左右に烈しく蛇行する深峡の妙景がまた別天地の趣を一層深くする。

 遡航すれば左手の懸崖に紀伊和泉の界に架けられている針金橋を仰ぎ見るころができる。更に上瀞に泝ると銚子岩あり、獅子岩等がある。その対岸に旅館料亭が全く日本画そのもののように点在している。屈曲相接することまた幾町、崖頭には必ず松がある。松があるところにはまた飛泉懸って別様の奇趣を呈するといったように一動一静がその状を異にしている。松茸岩大石等の奇景もまた眼前に望むことが出来る。絶えず船の後へと送り去られてゆく。

 静止の境をつくる峡谷は死寂の■域を思わせて神気清爽。幽寂の境地は原始時代の仙人生活の空気を漲らしている。

 悠々として深潭の瀞をなしているところにも他渓には見られない大きなスケールをもっている。大抵の渓谷は両岸が低くて水も浅く、天工の規模も小さいものであるが、ここに至ると全く「瀞」というものの予想を裏切られてしまう。

 水面に飛躍する魚の姿もみられる。禽鳥の声も河鹿の純情な声も聞くことが出来るというもの。

天保四年、澤錦浦氏が、はじめてこの瀞八丁に遊んで、詩を詠じてから瀞の名は起こったということで、その詩は、

世の讃■がこの瀞峡に集るのもこれで頷けることになる。優麗荘厳な人外境と言われるのも道理だ。水成岩の渓谷であることから、岩石に雅致があるので画題とされるところが多いことも考えられるのである。


瀞峡のプロペラ船

 尚、新宮より本宮廻りの瀞行きプロペラ船によれば、湯の峰温泉や、小栗判官車塚等の名所モ見物できる。野趣横溢した湯の峰温泉から十数町で達せられる川湯温泉や、九重村にある菩薩守忠度の誕生地の名所や旧蹟が附近に散在しているということであったが、急ぐため瀞八丁探勝のプロペラ船の舳をその方へ向けて新宮へ引き返した。
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