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ノスタルジック解説ブログ

大正15年「広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内」

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大正15年「広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内」

大正15年に広島瓦斯電軌より発刊された「広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内」より、「廣島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内」というセンテンスより。尚、旧仮名遣いと旧字体は可能な限り現代表記とした。


<広島瓦斯電軌株式会社経営電車沿線案内>


 天正年間毛利氏居城を築きしより以来、福島氏、浅野氏相次ぎ明治維新に至るまで城下町として発達し、土地閑雅にして繁盛に商工業日に月に進み、現に山陽第一の大都市として中国の大阪と称せられ三篠川の清流縦横を貫流し、水清くして水郷ベニスの観あり。市内電車は広島、己斐、横川の三駅及び宇品より出でて蜿蜒市内の各要区を縫い、其の間に点在する名勝旧蹟数多し。今枝を曳いて之を索むれば広島の港口、宇品港は市の南方にあり世界の公園と称せらるる絵の如き瀬戸内海に臨み古代原始宇品島の青巒は前方静かに横はる。

 港内水深くして大小の船舶常に輻輳し海内有数の良港にして陸軍運輸部の設けあり。明治十七年、時の県知事、千田貞暁氏、此地水浅くして四方の船舶出入に苦しむを深く憂え、同年九月工を起し年を経る事五年、資を投ずる三十余万円を以って竣成せしめたるものなり、と。

 明治○○○○○○戦役の際、大本営を広島に進めさせ給いし時、軍隊、平気の輸送を司り、その後北清、日露の両役軍事要港として益々其の真価を認めらるるに至りたるは今も尚世人の記憶に新たなるところなり。明治十八年明治天皇御巡幸の際、此の港を経て還幸し給う。因って御通○の道路を御幸通と名づけ埠頭御乗船の跡に松樹を植えて記念とし、御幸松という。

 御幸通を北すれば千田氏の銅像、戦捷記念碑等あり、兵器支廠、被服支廠、専売局等の大建築相接し其の間を縫うて省線宇品線敷設せらる。近海には海苔の採取、「かき」の養殖盛んに行われ、殊に「広島かき」の名は海内第一の称あり。

 明媚なる二葉山は市の東北隅にあり山麓を縫って騎兵第五連隊、東照宮、旌忠碑、忠魂祠堂、鶴羽根神社、明星院、二葉公園、ニギ津神社、招魂社等の名勝相連なる。

 ニギ津神社は県社にして旧広島半主浅野家の祖、長政幸長長晟三公の霊を祀る。天保六年松平○○の建立にかかり社殿の結構壮重を極め、境内幽雅にして桜樹老松枝を交え四時遊賞の客絶えず。

 市の中央には広島城址あり。毛利輝元、吉田の狭隘なるを患え、黒田如水の設計に遵い、家臣二宮就辰を奉行として天正十八年正月工を起し文禄二年竣成せるものなり。己斐の海上に築城せるを以って己斐の城といい、同音、鯉に通ずるを以って鯉の城又は鯉城と称せらる。慶長五年、福島正則城主となるや其の一部を修築し、元和五年浅野長晟城主となりしより子孫伝承十二世、年を歴る事二百五十三年にして明治維新となる。維新後城内陸軍用地となり、破却又は改築して旧態を失いたるも天守閣、内堀等今尚存す。天守閣は五層にして基礎東西十二間、南北九間、高さ十七間六尺ありという。

 周囲に陸軍弊社及び旧本丸の北には大本営跡あり。明治二十七八年の戦役旧本丸址にありし師団司令部を以って大本営に充て、同年九月十五日より翌年四月二十七日迄、明治天皇蹕を駐め給いしところなり。

 広島城の東に泉邸あり。浅野侯の別邸にして元和六年浅野長晟侯の創設なり。俗に御泉水を称す。支那西湖の景を模したるものなりという依て縮景園の名あり。園内に○○池、清風館、祺福山、跨虹橋、超然居、白龍泉、名月亭、水心島、楊柳湾、悠々亭、迎暉峯、桜花巷、映波橋、昇仙橋、重春橋、銀河渓、有年場、看花橋、香菜圃、霊邇壇、烟霞島、臨○岡、○雲橋、古松渓、緑○洲、蒼雪島、丹楓林、菊花○、観○橋、流芳軒等の名勝あり。多趣高雅名園を以って聞こえ、岡山後楽園と並び称せらる。遠来の士にして観覧せざるもの稀なり。隣接して浅野観古館あり。浅野侯の家宝を陳列し一般偶数日に観覧を許さる。

 城の南に練兵場あり。其の南方二筋目の繁栄地革屋町、横町等にして代償の店舗庇を接し、人車の往来織るが如く革屋町を東すれば新天地に到る。新天地は市内の熱閙地にして諸興業物、遊楽場、軒を並べ一大歓楽境をなせり。練兵場より南して小町に出づれば、国奉寺あり。風来山洞雲院と称し、曹洞宗の古刹なり。豊臣秀吉の開基にして○恵○の建立にかかる。境内に老楠櫻樹あり。大石良雄の室及息の墓碑、安国寺恵○供養の塔等あり。其の西隣の白神社には伊邪那伎、伊邪那美、菊理毘メの三神を祀る。比治山公園は市の東部高燥の地を占め、展望頗佳にして、月に花に又雪に四季折々の眺盡きざれど殊に「つつじ」の美観に至っては他に其の比を見ず。山形虎の臥するに似たるにより雅人之を臥虎山をもいう山の南端に陸軍墓地あり。軍人軍属戦死者の墓標累々として其の数幾千なるかを知らず。其の山下に広島県立師範学校、電信第二連隊等あり山の北端なる高台に到れば、旧御便殿あり。明治二十七八年戦役の際、広島に開かれたる臨時帝国議会の仮議事堂内御便殿の下賜を得、此の所に宮殿型なる上覆の建物を設けて其の中に移したるものなり。明治四十年之を建て記念殿とし、御真影を奉置す御座御物等当時の状を偲ぶべし。其の山麓にある神社を比治山神社という。

 堂宇の広大市内に冠たる本願寺広島別院は市の北部、三篠川辺に巍然として聳ゆ。元佛護寺と称し天台僧正信の建立なり。明治四十一年四月より今の名に改めらる此の附近を寺町と称し、大小数多の寺院堂宇を接す。

 三篠川を下り相生橋畔に到れば商品陳列場あり。市内外の物産を陳列し、市の情勢を窺うに足る。眺望絶佳の江波公園は市の西南端にあり、附近は潮干狩りの名所にして中春より夏時にかけ来遊するもの甚だ多し。

 名勝を探り旧蹟を索ねて終点、己斐に到れば宮島行電車は汽笛を鳴らして客を待つ。其の沿線の風光亦佳にして尚、随所史跡名勝に富み、一石一木皆雅趣を帯びざるものなり。更に歩を延して其の勝を探らんかな。


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