大正15年に文芸社より発刊された「全国名所めぐり」より、「鎌倉」というセンテンスより。尚、旧仮名遣いと旧字体は可能な限り現代表記とした。
<鎌倉>
鎌倉は治承の昔、源頼朝が幕府をここに開いてから、北條氏、足利市に至るまで凡そ二百年間、繁華を極めた地で、采圃桑園皆多少の因縁を止めないものはない。一木一石も昔を語る。地形東西北の三面は松樹の林立している小丘で囲まれ、極楽寺、大仏、化粧坂、亀ヶ谷、小袋坂、朝夷、名越の七切通に由りて、江ノ島、藤沢、大船、横浜、逗子等、四隣の地に通ずる。南の一方は由比ヶ浜辺で、小波相追い松声相和し、風向は頗る美である。
鎌倉へ遊ぶには、東海道本線藤沢駅から行くのもいい。其間には電車の便があり、鵠沼は近くの江ノ島と相対して、一体の白沙青松、風光は頗る美である。近時海水浴地として知られている。片瀬は鎌倉の西口、太平記に「新田義貞、逞兵二万余騎を率いて、片瀬腰越を打廻り、極楽寺坂へ打廻り給う」とあるのは此道である。龍口に龍口寺がある。寺は法華経の功徳によって日蓮の難を免れた霊蹟、古松伽藍を護って上人の霊像がある。
片瀬で電車を下りて、松林の間を縫って、一ノ鳥居を過ぎると、一路の軟沙海に至るところ、絵のような島が海に浮かんで、客人を招くようである。江ノ島は周廻が凡そ十八町、全島岩石から成り、断崖絶壁が四面を囲んで、怒涛常に其の肥を絶たない。橋を渡って華表を過ぎると、旅館が高くなるにつれて相連なり、真に一服の書図のようである。神社は邊津、中津、奥津の三祠に分れ、奥津の宮から西下すれば南端に児ヶ淵がある。一条の細道が奇岩怪石の間に通じて、龍窟の前まで行っている。洞は広さ方一丈余、奥行四十間ほどあって、古の所謂窟弁天を祀っている。辺りを望むと大島の一弧島が煙を噴いて遠くの波上に浮かび、富士の白雪が近くの鬚眉の間にかかって、実にいい景色である。
江ノ島から鎌倉へ至る途に腰越という村がある。文治元年に義経が鎌倉に入るのを許されないで、書を裁いて冤を訴えたところで、所謂腰越状で、当時の草案が今尚、満福寺に在るという。池があって硯の海といっている。弁慶がこの水で墨池を潤したと伝えられている。寺を出ると白沙一路の七里ヶ浜、義貞の金装刀を投じた稲村ケ崎に連なり、頼朝の千鶴を放ったという由比ヶ浜に接している。この辺は波が静かで、富士が見え、江ノ島が見える。海水浴に適している。浜の中央に行逢川があり、びょうたる一細流に過ぎないけれども、日蓮が龍ノ口に遭難した折、奇瑞を鎌倉に報ずる使者と、赦免の使者と、行き逢った所であるといって世に知られている。長谷に至ると海光山長谷寺がある。十一面観世音は名がさあ二丈六尺、仏工春日の作として名高い。法幔深く垂れて昼尚暗く、燭を執ってわずかにそのホウフツを弁ずることが出来る。大威山の大仏は鎌倉第一の遺物で、長三丈五尺、松の間に露座している。
建長寺、円覚寺、壽福寺、浄智寺、浄明寺の五寺を鎌倉五山という。建長寺、円覚寺は共に小袋坂の辺にある。壽福寺の後ろに、崖を穿って四壁に牡丹花を描いた書窟がある。中に実朝及び政子の塔がある。源氏山に登ると、古覇府の形勝が眼前に展開せられて、五山七谷七口十囲十橋一々指点することが出来る。
鶴ヶ岡八幡宮は字雪ノ下にある。廻廊が廟を護って結構荘厳を極めている。若宮は静が想夫恋の一極に坂東武者を泣かしめた所。石階の左に天を摩して聳える銀杏の大樹は、承久元年別当公暁が身を隠して、右大臣実朝を刺した所、今尚昔の哀れを訴えるように残っている。宮の東に右府を祀った白旗神社がある。天下の英雄吾と君とのみと豊公が笑って其肩を叩いたという木像を安置している。滑川を渡るとヨリともの館址が叢のうちに残っている。法華堂の山腹に頼朝の墓がある。五輪の塔で高さ五尺、雑草に覆われている。僅かに法号「武皇ショウ源大禅門」を認める位である。荏柄の天神を過ぎて二階堂に至ると、鎌倉宮がある。護良親王を祀っている。古式の構造を大層神々しい。社後の土牢は親王の恨みを千載に残している。
治承の昔、源頼朝が幕府を開いてから三代、北條氏、足利氏に至るまで凡そ二百年の間、繁華を極めた古き歴史を有する地である、つわもの共の夢の跡に夏草の繁りては枯れて六百余年を経たる今、世の文化と共にまた趣を変え、閑静の郷となり、悠遊の地となり、懐古の人、探勝の客、四時あとを絶たない。山水備わり、緑陰清昼、暑を避くるに好適の地である。