この文章は、大正10年に刊行された「富士山概況」の内容です。
又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
富士山概況
●富士山の位置形状
駿河甲斐の二ヶ国に跨る。太古の噴火山にして、巍然として都岡異の天空に聳ゆ。餘脈延て縦横に走り、東南は相豆に連り西北は甲信に接す。海抜三千七百七十八米突(一万二千四百六十七尺あまり)山嶺より瞰下すれば、いわゆる富士見十三州の壮観を見るべし。その形状、あたかも白扇を倒に懸くるが如く、四時白雪を戴けり。
●富士山の名義
旧記によれば、不二、布児、不盡、不死、不燼、福慈、富児等、挙げればその数、すこぶる多く、どれをこれとも定め難し。然れども、古語に「フジ」なる語を火、あるいは火山の意に用いらるる由聞く。大噴火山なるが故に、語源はこれより出しものならん。
●富士山顯出(けんしゅつ)
富士山顯出については、時代詳ならず。古書にも史実として見るべきものなく、諸説紛々として一定せず。人皇六代、孝安帝九十二年六月始めて涌出ともいい、又は人皇七代、孝霊帝五年六月、近江の琵琶湖と共に一夜に涌出すとも伝えられる。あるいは、太古雲霧深くして未だ顯れず。人民の登るものなかりしが、孝霊帝七年初めて雲霧晴れ顯出せしものなりとも言う。
●噴火の沿革
太古は活火山なりしも、今は活動休止して休火山の状態にあり。噴火の初めは伝説も尠(すく)なからざれど、区々一定せず。光仁帝の天應元年、富士山灰を降らす云々(続日本記)又、桓武帝の延暦十三年、富士山頂より火山灰を降らし、その爆音轟々として百雷の一時に落下せしが如く、灰燼夥しく、河水谷々紅色に変ず(日本記畧)とあり。延喜五年、紀貫之の古今和歌集序文中に「今は富士の山の煙りもたたずなり云々」とあれば、その頃には噴煙の衰えしこと明なり。
しかして宝永四年十一月二十二日昼八ツ時(午後二時)、嶽麓一帯に俄然強震起こり、翌二十三日迄振動三十余回に達す。これと同時に、山腹爆発して、轟々物凄く、溶岩流出、砂石、灰を降らして昼尚暗く、江戸附近にても白昼、提灯を点じ、市民おおいに恐怖したるが、翌二十四日に至り鎮静し、諸人始めて安堵せり。
その翌二十五日、またまた大爆発あり。地震数回、降灰夥しく、人心恟々たり。同二十八日に至りて、全く熄みたり。宝永山はこの時現出せしものにして、当時、嶽麓一帯五十余ヶ村は砂灰の積む事数尺、須走村の如きは、一丈八尺に及び、田畑荒廃して千余戸の農民困乏その極に達し、路上餓死する者続出し、四囲絶岩悄立す。口内は以前熱気ありと称されしも、今は之を感ずることなし。然れども、賽の河原及び伊豆嶽の東側には、今尚、到る所水蒸気を噴出し、四時積雪を見ず。誠に寒暖計を挿入せば、摂氏八十二度を示し、雞卵の如きは瞬時にして半熟となるべし。
●登山の起源
登山の起源についても、諸説紛々として補足し難し。一説には、人皇三代、推古帝の御宇、聖徳太子初めてこの霊峰に登らんとせられしも、荊莿脛を沒し、山腹に着せられし頃は尊体疲労を感じ給い、加之妖雲四方に起こり、全山鳴動して百雷の轟く如く、一歩も進む事能わず、時に一頭の麗馬突如出現し、太子を乗せて富嶽を廻り、駒ケ岳にてその姿を失いたり。この現出せし駒は、山梨県八代郡黒駒なりという。
文武天皇の御宇、役の小角登山したり。次いで近衛帝の久安元年末代といえる僧(一名富士上人ともいう)登山し、天下安寧を祈らんとて一切経を読誦せり。今もここを経ヶ岳という。
その後、文保年間中、頼尊等登山す。これを富士行者の始祖とす。これより登山漸次増加せり。続いて後奈良帝の御宇、角行東覚信徒を募り講社を組織して、屢々登山し、苦行の功を積み、天正三年六月三日、人穴に於いて逝去せり。行年百六歳。それより信徒の登山、年と共に増加し、徳川時代には富士講と称する講社起こり、白衣を着し、鈴を鳴らして、六根静浄を唱え、これを率いる者を先達と称し、一生の内、登山百余回に達するものもあり。登山者踵を接する有様にて、近年に至りては一ヶ年数百万人の多きに達す。
●雪中登山
雪中登山は数年来、一種の流行とも見るべく、毎冬、丈余の積雪を踏んで登攀するものも頗る多し。横浜市、水島長蔵氏の如きは、毎年正月元旦に登山するを例とせり。また、日本力行会員、長谷川恍一氏は精神修養の目的をもって、単身、大寒中登山する事五回、遂に大正元年二月、五合目附近において大雪崩に遭遇し、悲惨の横死を遂げられる。また、明治四十五年二月、墺国人クラシセル氏、及び墺国大使館少佐レルヒ氏(当時高田連隊のスキー教官)は、スキーと携えて登山し、無事絶頂を踏破せり。その後、高田連隊の将校十余名、スキー登山を企て、大正二年一月、吉田口より登山せしも、失敗に終わる。
翌三年一月四日、再挙を企てしが、またまた八合目附近にて、隊員、酒井某氏墜落して無残の横死を遂げらる。かくのごとくスキーを操縦しての富士登山は至難にして、単にスキー遊戯場としての富士山は最高適地というべく、毎冬外人の嶽麓にスキーを携えて来遊するもの踵を接する有様なり。
又、東京皇祖主人協会長、原正原氏は、大正五年より大正七年にわたり、連続雪中登山を試み、大正七年には、大寒中三十四日間の山籠に成功し、世人を驚嘆せしめたり。大正十年五月、上吉田有志の斡旋により、諏訪森上に記念碑を建設し、除幕式を挙行せり。著者は親しく原氏に面接し、山籠中の実況を聴取せるが、氏は心霊の擁護と自己の熱烈なる信念とにより、幾度か起死回生、遂に目的を達せる当時の状況を詳説せられたり。
要するに、登山には天候と積雪の硬軟、防寒具と食料等の注意周到なるに於いては、普通人と誰も不可能事にはあらざるべく、只、三~四月の候に至れば、気温上昇と共に雪崩盛に流出して、危険なれば、十二月もしくは一月頃を適当の季節とすべし。
●富士山の気象
富士の天候たる一度怒れば風雲を叱咤し、雷震を駆使し、為に毎夏電話線の寸断せらるるはたびたび目撃する所なり。されば登山者の為、特に気象観測の必要なる事いうをまたず、これにおいて、野中至氏山嶺の気象観測を企て、明治二十二年以来たびたび登岳して実況を視察し、頂上剣ヶ峯に観測所を建設して、明治二十八年十月一日、夫妻相携えて登山観測に従事す。これ雪中登山及び気象観測の嚆失とす。然れども不幸、高山病の冒す所となり、滞岳八十二日にして下山するの止むなきに至れり。再挙独力観測所経営に苦辛し、未だ嘗て一日も念頭を去らず、愈々大正二年度より頂上賽の河原に工事を起こし、著々進行を計りつつあり。完成の上は斯界に貢献するの大なる、今より期して待つべきなり。
下界は炎暑人に逼り、煩熱焼くが如き日と雖も、山頂は尚、積雪皚々として手戦き足慄い、久しく留まるべからず。もっていかに寒威の甚だしきかを知るに足るべし。今参考の為、中央気象台の調査に係る数年間の平均気象を示せば、温度最高摂氏十二度四、最低一度五、気圧四百八十八粍、風速一〇.八なり。
●富士の植物
熱帯地方より寒帯地方に移るに従い、緯度に準じて次第に植物分布の模様に変化を見る如く、常に雲表に聳、山容端然として単純なる富士は、植物体の区分、殊に明瞭にして、第一森林帯、第二潅木帯、第三草木帯、第四地衣帯となす事を得べし。この点において、富士山は実に最好の模型を示せり。
されど近世まで噴火したるため、他の高山におけるが如く、植物の種類に富めりという事を得ざれども、地積広きが故に、植物の数量極めて豊富にして採集に便あり。特に吉田口においては、山梨県山林会事業として、上吉田字鈴原下の恩賜県有林馬返し一合目間の登山道東側に沿い二町一反五畝十八歩の土地を劃して、各所高山植物を花園風に移植し、その成績を試験すると共に、登山者の鑑賞に供し、猶五合目附近より小御嶽及び御庭奥御庭附近の偃松、石楠花その他の高山植物を転々移植し、これが育成状態を試験すると共に、斯学研究者の資料に候せんとし、今や植え付け開始中なり。