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伊東の温泉【大正8年「伊東及附近」より】

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伊東の温泉【大正8年「伊東及附近」より】

この文章は、大正8年に発行された「伊東及附近」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。


伊東の温泉

 伊東六区のうち、玖須美、松原、猪戸は何れにもたくさんの湯がある。昔は、猪戸湯、出来湯、玖須美湯(昔は和田の湯と言った)の三つしか湯のなかったものである。

○猪戸方面の温泉では、松原出来湯と猪戸元湯が昔から名高い温泉である。出来湯は寛永年間に発見されたもので、源泉は桝湯とも言われている。

石材を畳んで方二間の湯槽を設け、底部の礫石の間から沸々として盛んに温湯を吹き出している。付近では、皆、木竹の樋を伏せて導いている。また、源泉の側に共同浴場もある。その隣に、馬の湯とて、馬の為の湯の池があったが、大正七年の秋になぜか埋めてしまった。名所の一つを失ったことを伊東の為に惜しむのである。馬の浴料、二銭であった。

その隣に路を隔てて、新湯という共同湯があって、眼の病に効き目があるので知られている。何れも温度百五十度位、湧出量の多いのは桝湯を第一としてある。昔は、徳川幕府へ豆州湯ヶ原の湯だと誤魔化して樽詰めとして盛んに献上したものだそうだ。

猪戸湯の発見されたのは、いつの頃か年代は定かではないが、往時、この辺は雑草が生い茂っていて、極めて寂しい所であったが、時々手負いの野猪が来て、その傷を癒して帰るのを里人が見て不思議に思い、草原をかき分けてそこから霊泉の湧き出るのを発見したのが、この温泉の始まりだと言い伝えられている。この辺を猪戸(昔は、猪渡と書いた)と言うのも、猪が来たという意味から起こった地名だと言うことである。

天保十一年に武智嘉右衛門という人が温泉宿を構えてからポツポツ増えて、今では大小十余軒の旅館が軒を並べて繁昌している。

泉質は塩類泉で無色透明、多少塩味はあるが、臭いは無い。その主成分は、

コロル 多量
硫酸 多量
カルキ 多量
アムモニヤ 微量
固形分合計 0.74グラム
ナトリユーム 著明
加里 著明

このほか、リン酸、ケイ酸、鉄分、礬土、マグネシア、等の痕跡を示して居る。効験ある適応症は、胃病、腸カタル、神経痛、リウマチス、神経衰弱、脳病、痔疾、打撲傷等によいといわれ、呼吸器病には効が無い。

○松原方面の湯は、松川橋の流域に沿って、何れを掘っても熱い湯が湧出するので、旅館は何れも自家専用の湯口を持っている。海に近いためか、塩分の強い湯が多い。又、松川橋際の榮町附近(玖須美に近い所)では、同じ松原区でも塩分はずっと少ないようである。

又、海岸近くの辰の新田に、眼の湯というのがあって、眼疾に特効ありというので、たんぼ中の小屋湯ではあるが、なかなか高名である。

泉質は猪戸の泉質と伯仲の間にあって、塩分が多量である。温度は百二十度位で、塩分がある為に、肌は多少荒れる気味はあるが、温まる湯である。

○玖須美方面の湯は、昔は和田の湯と言われ、慶長年間時の、里正下田氏が官に願って開墾して村民をここに映した。湯はその作地の中にあったので、和田の湯と言っていた。昔は伊東の薬湯と称えて、江戸の幕吏や大観、地頭などの来浴の際は停湯の令を下して、村民を入れしめなかったという位古くから知られていた。

この地の湯も江戸城に献湯したもので、御前湯といったものだそうだ。旧記によると、慶安三年に浴室を作ったのが初めだという。古来から遠近に著れているのは、玖須美大湯(十字路にある共同湯)と大阪の湯(通り名)で、両湯とも、浴槽の簀底の下から湧き出ている。櫻屋の一つもそれであるという。

この地は道路を挟んで何れを掘っても多量に湧出するので、湯口の多い事は各区中随一である。泉質は一リートルの中、

硫化水素 痕跡
コロール 最多量
加里 著明
ケイ酸 少量
硫酸 多量
ナトリユーム 著明
マグネシア 少量
礬土 少量
カルキ 少量
及びアムモニヤ、鉄分の痕跡

等の主成分で、無味無臭澄んだ湯である。温度平均百度位。
効能のある適応症は、非常に温まる湯であるので、子宮病、産後の養生、生殖器病、リウマチス、神経痛に特効がある。又、神経衰弱、胃病、痔疾等にもよいが、一切の呼吸器病には寸効がない。ただ、喘息には効能があるという。

以上、各区にはそれぞれ、別荘や自家用として専属の湯を持っている。ほか、共同湯が至る所にある(湯銭一回金二銭)から、自分で気に入った湯に入ることができる。


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