この文章は、大正7年に発行された「広重五拾三次現場写真対照」の内容です。又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
第二 品川(武蔵)
品川は江戸幕府の南門口に当たる要路にして当時品川宿と称し、東海道五十三駅中、第一次の宿なりしが故に、来往頗る頻繁にして駅亭を南品川宿、北品川宿、歩行新宿の三区に分かちたり。今、市街の中央に青楼多きは即ち、往年駅次の名残なり。
広重の図は旧時の八ツ山より宿場を通して真帆片帆朝日の影に照り映ゆる品川湾の風光を眺めたるところにして、右端は八ツ山、街路の両側に櫛比せるは妓楼旗亭、又、彼方遥かに海中に斗出せるは後世の崩れ台場、而して今や街路を練り行くは、さる大名の西に向かって此の宿を出て立つ有様。
又、写真は広重の描きし場所の現状にして、当時の八ツ山は切り崩されて数条の鉄軌其の跡を走り、更に京浜電車の起点停車場右手に高く聳ゆるを見る。尚又、左端海上に突出せる岬は、幕政時代国防計画の俤を残せる崩れ台場の旧跡なり。