この文章は、昭和2年に刊行された「汽車の窓から」の内容です。
又、旧字や現代では使用しない漢字、旧仮名遣いなどは読みにくいために、現代様に改めました。
富士登山
富士の登山者は近年非常に激増した。老人も子供も、女も婆さんも皆、我勝ちに登って行く。で更めて登山案内でもあるまいから、私は簡単に書き添えて置く。
富士は四周に、その広大なる裾野を展開して、他の高山の様に山また山を越えて登るのでないから、その登り口は何処からでもあるわけだ。しかし普通登山口として設備の整っているのは、御殿場駅からする御殿場口、須走口、裾野駅からする須山口、富士駅から大宮町行って、そこから登る大宮口、中央本線大月から吉田に行って、そこから登る吉田口の五道である。御殿場口と須山口は三合目から一所になり、須走口と吉田口は八合目で一所になっている。
富士は俗に草山三里、木山三里、禿山三里といって、草と木と石の三色線が明に見える。登山路は各道とも十合に分つている。山麓には皆、浅間神社がある。大宮口のが本宮で、官幣大社に列せられており、吉田口では富士嶽神社といっている。いう迄もなく富士の祭神、木花咲耶姫を祀ってあるのだ。山腰には馬返しがあり、以前はそこで乗馬を返して草鞋の足を踏み締めたものだが、今はどの道も五合目あたりまでは馬で行ける。馬返しの上には太郎坊があり、登山の必需品を売っている。
太郎坊から一合目となり、順を逐って頂上まで十合となっている。そこから適当な距離に岩室があって、あえぎあえぎ登った息を休ませる。三方は石で畳んで一方は出入口、屋根は白樺の皮で葺いて石を載せている。中は八畳二間位で板張りの壁である。足の踏む所は焦砂ばかりで泥はつかないから、草鞋のままで室に入りて起臥するのが例である。
八合目以上になると大ダルミ、胸突八町などがある。もうここは空気が希薄になっているので、呼吸脈搏忙しく、互の顔色が黄色く見え、唇は紫色に変わっている。人によっては眩暈や頭痛、吐き気を催すこともあるが、決して心配するには及ばぬ。下山すると夢の覚めた様に直るものである。
頂上には噴火口があって、内院又は御鉢といい、これを続って浅間ヶ嶽、三島ヶ嶽、剣ヶ峯、白山嶽、久須志ヶ嶽、伊豆ヶ嶽、成就ヶ嶽、駒ヶ嶽の八峯が立っている。火口壁の一部分の突起したものである。
大宮口からの道は、浅間ヶ嶽の浅間神社奥宮の社前に着し、御殿場口、須山口からの道は奥宮の右の下にある銀明水の傍に出で、須走口、吉田口からの道は久須志ヶ嶽の久須志神社の前に着く。各道とも石室があるから、そこに休憩して名物の甘酒やお萩で腹をこしらえ、夫から御鉢巡りをするのが好い。噴火口は直径十三町、その周壁に沿うて巡るのが外輪めぐり、内部を巡るのが内輪めぐり、外輪は五十町、内輪は三十六町である。
登山口から頂上までは須走口は五里、御殿場口は八里、大宮口も八里、須山口は七里、吉田口は六里である。普通は各登山口に一泊し、翌未明に出発して日帰りにするか、六合八号の石室に一泊して、日出の大観を見て下山する人が多い。時間の都合では夜山をする人もある。
日出を拝するのを御来光といい、夕日の光を背に浴びる時、人影雲表に投射して、数丈の幻影を見る。人三人なれば影もまた三つである。これを三尊の弥陀という。同じ理にて嶽影山に亙り水を越えて方数十里、淡墨一抹の富士を描くを影富士という。月夜の景観もまた、何ともいえぬ好い眺めである。雲も下から起こり、風も下から吹き、雷も脚下に鳴り、虹は直立し、風象全く人界と趣を異にするのである。
雪中登山さえする人があるから、何時でも登られるわけだが、まず七月から九月まで
、特に八月の土用前後にかけては、天候の激変がないから好い。旅装はなるべく軽装して、身心の放縦を戒めねばならぬ。鳥打帽洋服か、兵児帯で股引脚絆、足袋は底厚のものを選んで草鞋履きが好い。フランネルのシャツ一枚は準備し、炎熱を防ぐため、着ゴザ、菅笠を着くるが好い。携行品は仁丹、又は実丹、ビスケット、麵麭、果物、水筒、望遠鏡、夫に気つけにウヰスキーかブランデー、他は石室で買うが好い。が、梅干と氷砂糖は忘れてはならぬ。口に含んでいると、口が渇かないで実に好いものだ。なるべくは二~三人連がよく、共同して一人の強力を雇うが好い。
金剛杖を身にもたせて、杖の力で登るようにせねばならぬ。裾野から急いだり、金剛杖を引提げだり、引きずったりする人は、必ず後に疲れる人である。呼吸は静に、歩調は極めて緩やかに、遅速を念頭に置かず、「かたつぶり そろそろ登れ 富士の山 一茶」の調子で行かねばならぬ。途中ではあまり下を見ぬ方が好い。八合目以上になると五歩に一息、十歩に一憩、ますます心を落ち着けつが好い。
頂上した嬉しさは実に何ともいえぬものだ。衝天直立一万二千三百七十尺の上に、尚我五尺あまりの身体が立っているのだ。「聞きしよりも 思いしよりも 見しよりも 登りて高き 山は富士の根 東麻呂」、頂上に立って外科医を見渡すと、この歌の味がわかる。
登りは人によって七時間ないし十二時間もかかるが、下山は誠に易い。沙走りを走るからである。細粒の火山沙を身を反らして、一気に急下するからである。御殿場口は頂上から殆ど一合目まで、須走口は三合目まで、吉田口は五合目まで沙走りである。
富士の五合目あたりの中腹を一周するのは御中道めぐりである。大宮口の五合目から大澤までが三里、大澤から吉田口の五合目までが五里、そこから須走口の五合目までが二里、須走五合目から御殿場口の六合目までが二里、そこから大宮口五合目が一里、道程約十三里だが、実は八~九里に過ぎない。一日で充分に巡られる。各道の五~六合のところを一周する、いわゆる廻れば廻る元の道であるから、どの登路から行っても結果は同じわけである。皆好き好きの道から登るが好い。
大宮口の五合目から大澤の間は、八百八澤といって澤が多い。溶岩類の変化を研究するに好いところだ。大澤はまた鳴澤といって、頂上の剣ヶ峯から山麓まで直下せる大澤で、絶えず岩砂の奔下する音が凄い。九月に入ると風の為に大きな岩の落下することもあるので危ない。
昔、この御中道を開いた角行尊者は、この澤を横断して神歩鬼行したというが、年々谷底が深うなって、今は越えることが出来ぬ。で不動岩下から一里あまり降って大澤越場を渡り、夫からまた一里あまり登って、御助小屋に行くことになっている。ここからまた、いろんな澤を通りて、山中第一の絶勝だという天狗の御庭に出る。御庭から小御岳神社に詣でて吉田口の五合目に着く。
大沢から吉田口までの間は樹海で、石楠花(シャクナゲ)が美しう咲いている。吉田口から燕子澤を越えて須走口を経て御殿場口を過ぎると、馬の背越に出で、砂走を下って宝永山の噴火口へと行く。噴火口から上を望むと、いわゆる十二神石となづくる岩石が並び立っている。そこから火口を登りて左へ、大宮口の五合目に着く。
御中道めぐりは幾分苦しいが、四辺を見渡す景色が好い。甲州方面の湖、駿州方面の海の変化も面白い。夫れよちも尚、興味の多いのは裾野めぐりである。富士は登れば登る度に、各道違った興趣を覚ゆるが、一度は御中道巡りもすべきものである。裾野めぐりもすべきものである。私はまた、更めて中央線の大月駅のところで、富士及び富士の裾野について語るつもりで、ひとまずここに筆を置く。